ASIA center | JAPAN FOUNDATION

国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
心と心がふれあう文化交流事業を行い、アジアの豊かな未来を創造します。

MENU

人とつながりながら、ジャワから世界を踊る――エコ・スプリヤントインタビュー

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

私が教えるのではない、私はつなぐのだ

――もうすぐあなたの最新作『Cry Jailolo』が日本で上演されます。この作品は、インドネシアのモルッカ諸島のひとつ、ハルマヘラ島のジャイロロ*1 という地域の民族舞踊を素材につくられたものですね。あなたはジャイロロ市の委嘱で、2013年の「ジャイロロ湾フェスティバル」で地元の中高生による出し物『Sasadu on the Sea(海の上のササドゥ)』をつくりましたが、『Cry Jailolo』はそれがきっかけになっているのですね?

*1 インドネシア東部・マルク諸島(モルッカ諸島)ハルマヘラ島西部に位置する市。行政的には北マルク州西ハルマヘラ県

エコ・スプリヤント(以下、エコ):そうです。「ジャイロロ湾フェスティバル」は西ハルマヘラ観光局が2007年から観光促進の目的で毎年開催している祭りで、海外からも観光客の来る、大きなイべントです。ジャイロロにはいくつかの民族が住んでいて、それまでのフェスティバルでは、海上にしつらえた大きな特設舞台でそれぞれの民族舞踊が次々と披露されていました。2011年に市長から話をもらった時、私は、そのようなやり方でなく、何かしら別の方法で土地の伝統文化にアプローチし、民族をつなぐようなことをしたいと申し出ました。私は、インドネシアのあちこちを“植民地化”したジャワの人間です。その私がジャイロロの人に教えるのではなく、彼らはいるべきところにいて、私はただ彼らを結びつけるのが役目だと考えたのです。

2011年の終わりに初めてジャイロロを訪れた時、市長は私を真っ先にダイビングに誘ってくれました。初体験のダイビングは、水中の美しさ、そして重力に逆らった新しいダンス・ゾーンを発見させてくれました。それから、伝統舞踊や工芸や伝統料理、いろいろなことを1カ月ほどかけてリサーチしました。その後も何度も通い、長い時は5カ月も滞在しました。出し物の出演者はジャイロロの中学生と高校生で、サフ、トバル、ガムコノラ、ジャイロロの4つの民族がいました。ガムコノラとジャイロロはイスラム教徒、サフとトバルはキリスト教徒です。私はジャイロロ中の学校を回り、ワークショップを重ねました。なにしろ生徒は450人もいたのです。

そして最終的にできたのが『Sasadu on the Sea』でした。ササドゥというのはサフ族の伝統的な様式の家屋で、これを海上の特設舞台の上に建てました。各民族の踊りを盛りこみましたが、そのことに民族間の軋轢がなかったわけではありません。たとえばサフ族には、ササドゥの屋根の葺き替えの時に小さな男の子が屋根の上で踊るレグ・サライという儀式的な踊りがあります―もっともこれを踊ることができるのはもはや一人しかいないのですが。そのレグ・サライを重要な素材として使いながら、屋根の上には、トバル族に伝わるチャカレレという戦いの踊りを置きたいと思いました。そのことをトバル族の首長に話すと、サフ族のササドゥの上でチャカレレを踊るなんてとんでもないと、強く否定されました。そこで急遽、実際に舞台にササドゥを組んでその上でチャカレレを踊ってもらったところ、これは美しいと納得してくれ、10歳のトバル族の男の子が踊ることが可能になりました。共同体との作業、子どもたちとの作業を通して、ジャイロロは民族紛争の地ではあったけれど、自分たちの芸術を理解し、それを使ってひとつになることができるのだと示すことができたと思っています。

エコ・スプリヤント氏の写真
写真:山本尚明

――ジャイロロの観光の目玉はダイビングとサンゴ礁ですが、あなたはリサーチの過程でサンゴ礁の破壊の問題に直面します。環境破壊のテーマは、地域共同体の利害の問題も絡んできますね。リサーチや創作が政治的な論争を導いてしまうことはなかったのでしょうか?

エコ:これはあくまで観光促進のためのプロジェクトでしたから、あえて政治的な問題を扱おうという気持ちはありませんでした。しかし、私がジャイロロに行った時にはサンゴ礁は死滅していて、市長は実のところ、土地の漁師たちの爆発漁法(ダイナマイトなどの爆発物で水中の魚を気絶させ、浮き上がってきたところを回収する漁法)をやめさせたがっていました。この漁法がサンゴに与える影響は多大でしたから。また、ジャイロロ湾はサメの生息地でもあり、多くの漁師がサメを殺してヒレを中国やオーストラリアに売っていました。これはつい最近まで大きな問題になっていたことです。そこで市長は、爆発漁法とサメの捕獲を禁じる条例を制定しました。インドネシアでは中央政府が地方独自の条例を認めることはほとんどなく、地方都市がこのような独自の条例を制定したことは、政治的な問題と呼べるかもしれません。条例は漁師たちにとっては死活問題でした。そこで市長は、「コペラシ」と呼ばれるインドネシア特有の協同組合を作ることを思いつきます。共同漁場を設け、漁師はそこではなにを獲ってもよく、獲れたものは均等配分するというものです。漁師の間には最初は不満もあったそうですが、徐々に理解されていったそうです。自然を守るということもありますが、互いに支え合う組合をつくったことがすばらしかったと思います。

Cry Jailolo』をジャイロロに戻したい

――さて、あなたは、『Sasadu on the Sea』で使ったサフ族の踊り、レグ・サライを素材に、『Cry Jailolo』を創作します。作品は、2013年7月にマレーシア・クアラルンプールのASWARA(マレーシア国立芸術文化遺産大学)で行われた国際ダンス・フェスティバル「Tari '13―Dancing Across Borders」で初演され、さらに翌14年11月にジャカルタの「インドネシア・ダンス・フェスティバル」で上演されて、大きな反響を呼びました。この作品について話していただけますか?

エコ:ジャイロロは、伝統舞踊だけでなく、たくさんの美しいことを私に見せてくれました。一方、市長は、条例を策定して漁法習慣を変えるだけでなく、全国からダイバーを招いてサンゴを植えつけるサンゴ・プランテーションのアイデアも持っていました。そこで私は、ジャイロロの伝統舞踊をべースに、環境破壊による海の嘆きと再生への希望がテーマの作品をつくろうと考えたのです。『Sasadu on the Sea』に参加した生徒のなかから、高校生6人を選びました。1人が自分の村で宗教儀式的な踊りをやっていたほかは、踊りの経験のない子ばかりです。ASWARAでの上演には大勢のお客さんが来てくれ、大好評でした。あんなにいい反応を得られるとは思っていなかったので、とても驚きました。そして、それならばもっとやってみようと思い、ジャカルタ公演につながっていきます。

――ジャカルタ公演には、ドラマトゥルグとしてアルコ・レンツ*2 が加わっていますね。

*2 ドイツ人コレオグラファー、ダンサー、演出家、ドラマトゥルク。ベルギーのブリュッセルを拠点にダンス・カンパニー、Kobalt Works を率い、自身の作品のほか、世界各地の劇場からの委嘱作品を数多く手がける。アジアとの協働作業に力を注ぎ、2013年以来、インドネシアで『solid.states』と『KRISIS』、ベトナムで『Hanoi Stardust』、フィリピンで『COKE』、シンガポールとフィリピンで『ALPHA』などを創作している。また、ヨーロッパとアジアのアーティストによるリサーチと交流のプロジェクト「Monsoon」を各地で続けている。

エコ:はい、彼とは、私がジャイロロと行ったり来たりしていた頃、『solid.states』という作品で一緒でした。クアラルンプール公演の後、『Cry Jailolo』をさらに深いものにしたいと思った私は、私をよく知り、客観的に問いかけたり議論してくれたりする誰かがほしいと思いました。ある日、ジャイロロで初めてダイビングをした時のことをアルコに話したら、彼はとてもおもしろがってくれて、いろいろなことを語り合いました。そして彼にドラマトゥルグを依頼することになり、2014年の6月に、彼もその頃作業していたベトナムからジャイロロに合流しました。

彼はコレオグラフィーなど作品そのものについて客観的な質問を投げてくれただけでなく、私と一緒に無重力という新しいダンスの領域を覗いてみたり―私はもちろん彼をダイビングに連れ出しました―、ジャワ舞踊の重力安全地帯から出てみたりと、いろいろなことをしました。もちろん、ダンサーたちの生活を観察し、彼らと深い関係を築きました。結果、テルテナ(ジャイロロの沖合にある島)のソヤソヤという踊りの要素も加わり、初演よりも若者たちの夢と希望を盛り込んだものになり、上演時間も22分から1時間に拡大しました。

――ジャカルタ公演では、ダンサーがひとり増えたのですね。

エコ:ゲリ・クリスディアントというダンサーが加わりました。彼はジャカルタでポップ・シンガーのバック・ダンサーや振付をしている売れっ子業界人間で、私のテレビの仕事でアシスタントをしてもらっています。コンテンポラリー・ダンスと無縁な彼を引き込んだのは、ポップ・カルチャーという巨大市場に居場所を持つ彼がプロジェクトについて言い広めてくれることを期待してのことです。狙いどおり、彼はあちこちで「ヒップホップだけじゃなくて、インドネシアの伝統も見ないといけないね!」とふれまわってくれました。

クライ・ジャイロロの舞台写真1
Photo: Pandji VascoDagama

――ジャカルタ公演の評価はどうだったのでしょう。クアラルンプールもジャカルタも、元のコンテキストを離れての上演だったわけですが、それは作品の意味になにか影響をもたらしましたか?

エコ:ジャカルタ公演には、ジャイロロ市長が、フェスティバルで一緒に働いた総勢92名ものスタッフ全員を招待してくれました。彼らは私がこの作品をつくっていることは知っていましたが、稽古を見たことはなく、本番が初めてでした。彼らはすっかり作品を好きになってくれ、「これが本当にジャイロロのもの?」と驚いていました。ジャイロロというコンテキストを離れても作品そのものの意味が変わるわけではありませんが、私がジャイロロ以外の公演で最も大事にしているのは、インドネシアはジャワやバリ、スマトラ、パプアだけではないんだということを、インドネシア全体、そして世界に知ってもらうことです。ジャカルタ公演のおかげで、インドネシア人さえほとんど知らないジャイロロのことがずいぶん話題になりました。ジャイロロを、これから探求すべき文化・芸術の地として紹介できたのは本当にうれしいことです。今年はこの作品をジャイロロのフェスティバルに持ち帰りたいと思っています。6人のダンサーがそれぞれ50人に教えれば、300人の『Cry Jailolo』になるでしょう。『Cry Jailolo』はあなたたちのものからつくったんだ、だから世代から世代へと受け継いでいくあなたたちの財産だよと伝えたいのです。そうすれば、私がなぜ『Sasadu on the Sea』をつくったかもわかってもらえるでしょう。

インドネシアのツーリズムは、「ジャイロロ良いとこ、ジャイロロにおいで」風のものばかりですが、実際にジャイロロに行って『Cry Jailolo』を静かに見る―これこそが、私の目指す“サイレント・ツーリズム”です。

クライ・ジャイロロの舞台写真2
Photo: Pandji VascoDagama

――ジャイロロの何がこんなにもあなたの想いをかきたてるのでしょう。

エコ:これまでも現地の人と何かをするプロジェクトは経験していますが、多くは、1カ月かそこらワークショップをして作品を創作するというものです。でもジャイロロでは、時間もリサーチの内容も、なんの制約も受けたことはありません。私にとって特別な場所です。私の両親は、私が米国留学から帰国してすぐに亡くなりました。妹が1人いますが、結婚してソロを離れてしまいました。だから、私には家族がないようなものなんです。ジャイロロに行って子どもたちや市長に会うと、まるで家族のような気がします。紛争のイメージから、マルクの人は烈しいと思われていますが、そんなことはない、とても心のやさしい人たちです。私は、あの地、あのプロジェクトと恋に落ちてしまったのです。

6人のダンサーたちは、だれもかれも家庭の問題がありました。望まれずに生まれて幼い時から毎日父親に殴られて育ち、建築現場で働いて授業料を稼いでいる子。幼い時両親が蒸発して近所の人の助けで大きくなった子。集団レイプされた母から生まれ、その母が亡くなり祖母に育てられた子。マルク暴動の時、目の前で両親と兄妹が殺されるのを見た子…。マルクは美しいところですが、悲痛な場でもあり、それが私を引き入れるのかもしれません。

――その後、彼らはどうしているのですか?

エコ:両親が蒸発して近所の助けで大きくなった子はいま、ソロのISI*3 で学んでいます。授業料はジャイロロ市長が面倒をみてくれています。来年はさらに4人がISIに来る予定です。彼らにはぜひ、ジャイロロ・フェスティバルにリーダーとして戻ってほしいと思います。

*3 インドネシア芸術大学(Institut Seni Indonesia)。広くISIという呼称で知られる。中部ジャワのジョクジャカルタとスラカルタ(別名ソロ)、西ジャワのバンドゥン、スマトラのパダンパンジャン、バリのデンパサール校がある。スラカルタ校の前身は1965年に設立され、1983~2006年まではSTSI SurakartaSekolah Tinggi Seni Indonesia Surakarta/インドネシア芸術高校スラカルタ校)の名称だった。インドネシアの伝統舞踊と伝統音楽教育の中心である一方、エコ・スプリヤントのほか、このインタビューに出てくるサルドノ・クスモ、マルチナス・ミロト、ムギヨノ・カシドなど、インドネシアを代表する多くのコンテンポラリー・ダンサー、コレオグラファーを輩出している。