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コンテンポラリー・ダンスでカンボジア舞台芸術の新たな地平をひらく ――アムリタ・パフォーミング・アーツの挑戦

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

クメール・ルージュ政権崩壊後のカンボジアの舞台芸術状況

山口真樹子(以下、山口):インタビューを快諾していただきありがとうございます。あなたがエクゼクティブ・ディレクターを務めるアムリタ・パフォーミング・アーツについて伺いたいのですが、まずは、カンボジアの舞台芸術の現状を教えてください。

リティサル・カン(以下、RK):カンボジアの舞台芸術状況を理解していただくため、少し歴史についてお話しします。1975年から79年までカンボジアではクメール・ルージュ体制のもと大量虐殺が続き、その間殺害、飢餓もしくは病気で命を落とした人が約170万人といわれています。同体制は高等教育を受けた人々や、そのような人々と関係があるとされた芸術家を処刑しました。内戦が終結して同体制が崩壊、国が解放されると、芸術家はプノンペンに集まるようにという声明が出ました。生き残った芸術家が実際に集まったところ、生存者はわずか約1割であることが判明。舞台芸術の伝統をなんとか復活させ、失われないようにしなければと考えました。彼らの多くは40代、50代の先生たちで、復活のための時間はせいぜい10年~20年しか残っていない。復活できなければ、あとはもう墓場に持っていくしかないという状況でした。
1980年、プノンペンの芸術学校が再開されました。その後、「王立芸術大学」の名称に戻り、重要な教育拠点となります。一方、プノンペン以外でも、カンボジア各地のパフォーミング・アーツの担い手たちが、若い世代の芸術家のトレーニングを始めました。
このような動きは、カンボジア王国が誕生し、1993年に初の民主選挙が行われるまで続きました。カンボジアが世界に開かれると、多くの国々とのやりとりが始まり、芸術分野もその例外ではありませんでした。たとえば、2001年に米国で『ダンス、カンボジアの心』(Dance, The Spirit of Cambodia)という大規模なツアーが行われ、30名以上のアーティストが米国内11都市で公演を行いました。芸術家もニューヨークをはじめ米国各地に招かれ、さまざまな交流が行われました。これらの出来事は非常に重要な意味を持っていました。ツアーを計画した人は、ツアーがカンボジアの舞台芸術界に与える影響についても考えていたのです。実際、米国の団体やプレゼンター、プロデューサーから多くのサポートが提供され、カンボジアの芸術団体によるプロジェクトの数がぐんと増えたのです。
2003年、米国の演劇実践者フレッド・フランバーグ(Fred Frumberg)がアムリタ・パフォーミング・アーツを設立しました。フレッドは、欧米各地のオペラハウスや劇場でピーター・セラーズ(Peter Sellers)といった国際的な演出家とともに活躍した人で、1997年にユネスコの舞台芸術専門コンサルタントとしてカンボジアを訪れました。ユネスコの援助基金がカンボジアの文化芸術省を支援し、プロフェッショナルな上演をサポートしていたのです。当時カンボジアの舞台芸術家は、作品の創作や上演そのものはうまく行えましたが、照明や音響、ステージ・マネジメントにおける専門性が欠けていました。フレッドがやってきて、すべてが解決されたわけではありませんが、それでもプロフェッショナルな舞台上演が可能になりました。

米国の支援が多い歴史的な背景

山口:なぜ米国からのサポートが多かったのでしょうか?

RK:カンボジアはクメール・ルージュ政権に支配され、その後1979年に解放されたわけですが、当時多くの人々が難民として米国に逃れたのです。カリフォルニア州ロングビーチには最大のカンボジア難民のコミュニティがあり、マサチューセッツ州ローウェルに逃れた人も多く、そのなかには芸術家が多くいました。ローウェルのニューイングランド芸術財団が難民に寄り添い、散り散りになった難民が集まって伝統舞踊について語り、思い起こす機会を提供していました。同財団はその後、難民の芸術家が舞台芸術に復帰できるよういろいろ試したのですが、彼らはなんとか生活をしていくことに必死で、舞台芸術の実践まで考えることはなかなかできなかった。つまり支援が必要でした。そこで同財団は、カンボジアの芸術家を難民のコミュニティに招き、ワークショップなどを行い、大きな支えとなりました。
こうしたプロセスを経て、ニューイングランド芸術財団は、前述の2001年米国ツアー実現の原動力のひとつとなりました。さらにニューヨークのアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)などもサポートに加わり、ロックフェラー財団から資金を調達してくれました。王立芸術大学への直接支援も行われました。米国の多くの支援団体がカンボジア舞台芸術支援の必要性を深く認識していました。
フレッドはたまたま何人かのカンボジア人アーティストに出会い、カンボジアに興味を持ち、実際に訪れたのです。当初はせいぜい数年程度かかわろうと思っていたようですが、実際にカンボジアの状況を目の当たりにし、考えを変えました。そして、カンボジアのアーティストとの出会いから得た経験を踏まえ、ここが彼らしいと思いますが、何か大きなことを実現するのではなく、とにかくサポートをすることが重要だと理解したのです。
そうして彼は2003年アムリタ・パフォーミング・アーツを設立し、カンボジアの伝統的な舞台芸術の復活と保存に乗り出しました。

インタビューに答えるリティサル・カン氏の写真1
photo:鈴木孝正

山口:米国のNPOとして立ち上げたのでしたよね。

RK:はい、現在も米国のNPOのステイタスを持つ団体です。合衆国の非営利法規に基づく国際NGOなので、米国内で助成金を得ることができます。また国際機関として、カンボジアの外務省および文化芸術省と了解覚書を交わしています。

舞台芸術の教育機関と雇用環境

RK:アムリタは2003年、カンボジアにオフィスを開き、前述の王立芸術大学、第二芸術学校、文化芸術省公演芸術局の3つの組織と協力しながら活動してきました。学生は、まず第二芸術学校で9年間、ダンス、演劇、音楽それからサーカスのうちのいずれかひとつを学び、修了すると学士号を得ます。その後の進路には、王立芸術大学で学士号を取るか、直接公演芸術局に入り「政府アーティスト」になる、つまり政府に雇われるかの、2つの選択肢があります。

山口:政府がアーティストを雇用するという制度は今も続いているのですか?

RK:はい、続いています。以前はアーティストの数がそれほど多くはなかったので、卒業すれば各自が十分に仕事を得ました。しかし今は状況が厳しくなり、必ずしも全員が仕事を得るわけではありません。しかも、政府の仕事は高い収入にはならず、アーティストとして、それだけで生活するのは厳しいのが現状です。
王立芸術大学、第二芸術学校、文化芸術省公演芸術局は教育機関ですが、作品創作も行います、ただし、そのための予算はそれほどありません。せいぜい1年に2~3作品ほど創作できればよいくらいです。政府の支援は、職員の給与と各団体の事務所運営に限られます。ただ、外国から来賓がある場合には作品創作が可能になることもあります。アセアン諸国や日本の首相がカンボジアを来訪するとなると、上演の機会が得られますし、そうです、先ほど述べた「政府アーティスト」が出演します。
アムリタは、政府案件などの特別な催事を行わずに、一般観客に公演を届けたいと考えています。フルタイムのアーティストを雇っているわけではありませんが、いろいろな努力をしています。

舞台の写真1
舞台の写真2
『Khmeropedies III』(振付 Emmanuele Phuon) (c) Yi-Chun Wu

アムリタ・パフォーミング・アーツの歩み

山口:なるほど、よくわかりました。次に、アムリタの取り組みについて伺います。設立時、フレッド・フランバーク氏は実際には何をしたのですか?

RK:アムリタをスタートさせた彼の目的は、プロフェッショナルな舞台作品の上演を全分野の芸術家に対してサポートすることでした。1年を通じて彼はプロデュースし、会場を借りてプレゼンテーションをして、上演に必要な資金を調達する。公演芸術局による作品も、王立芸術大学の作品も、あるいは他の作品も手がけました。サーカスもです。そしてカンボジアの多様なパフォーミング・アーツを観る機会を観客に提供すべく力を尽くしました。これがプロデュース面における貢献です。さらに、カンボジアのアーティストが自分たちでプロデュースすることも支援し、同時に海外ツアーの可能性も探りました。実際にオーストラリアや、ロンドン、バンコクなどへのツアーが実現しました。

山口:それはどういった作品だったのでしょうか?伝統的な内容ですか?

RK:当時は伝統舞踊などの作品でしたね。本当にすばらしい時代で、総勢40名規模でツアーをするほどサポートも十分でした。メルボルン国際芸術祭でも、バービカン・センターでも公演を行いました。まずは地元で作品をつくること、そして外国でツアーを行うこと。会議やワークショップへの参加も活動の対象でした。たとえばインドネシアの「スラバヤ・若手振付家ワークショップ」や、「世界舞踊連盟年次会議」など、東南アジア各地で行われるワークショップやミーティング、マスタークラス、ショーケースなどに若いアーティストを送り出し、多くの人に会い、多くの作品を観て多様な情報に触れる機会を提供していきました。また、「香港ダンス・フェスティバル」や、シンガポールのダンス・フェスティバルなどをツアーで訪れた際、他のアーティストと交流し、互いの作品を観て、マスタークラスやワークショップに参加します。カンボジアで生まれ育ち、伝統舞踊のトレーニングを受けているアーティストたちが、外国で新しい作品に触れ、そこからインスピレーションを得る。そして伝統舞踊を伝承する以外に、もっと何かができるはずと考えるようになるのです。
とはいえ、何をやるべきかがわかっていたわけではありません。ただ、境界を越えて何かをやりたいというアーティストの気力に応えたのです。カンボジアを訪れるダンスカンパニーがあれば、私たちが受け入れました。未知のものに触れるうちに、同時代の作品をつくりたいと思うようになっていきます。私たちのコンテンポラリー作品第1号は、タイの振付家ピチェ・クランチェン(Pichet Klunchun)とともに創作したものでした。

山口:そうだったのですね。いつのことで、どのように決まったのでしょうか?

RK:計画を始めたのが2004年、実際の創作は2005年です。フレッドとタイのチュラーロンコーン大学演劇学部長ポルンラット・ダムルン准教授(Pornrat Damrhung)の対話がきっかけでした。ピチェは当時すでに高く評価されていて、シンガポールなど外国で活躍していました。カンボジアとタイは文化、伝統、歴史において密接につながっているので、コラボレーションを試みるのにピチェはうってつけでした。ダンサーにバレエのトレーニングを行うべきかどうかを検討していたときもありました。
当時、コンテンポラリー・ダンスと聞くと、私たちはまずバレエを学ばなければならないと考えていたのです。仲間内でのこの議論はとても興味深いものでした。最終的には、やはり自分たち独自のものを創作することが重要である、そこから何かが生まれるかもしれないという結論にたどりつきました。そういうわけで、バレエダンサーは使わなかった。カンボジアの舞踊はバレエとは異なり、低く、地面に向かいます。彼らは大変だったと思います。
ピチェはすばらしかった。すでにこの課題に関する経験があり、カンボジアのアーティストを導いてくれました。共同作業の結果として完成した作品『Revitalizing Monkeys and Giants』は、のちにシンガポール国立美術館のオープニングで2006年に上演されました。
カンボジアのアーティストは、このアムリタのプロジェクトでコンテンポラリー・ダンス・パフォーマンスを初めて体験することになりました。初の国際的な振付家とのコラボレーションでした。成功を収め、シンガポールに再び招へいもされました。

山口:あなたは2003年にアムリタに入ったのでしたね。

RK:そうです。2001年の米国ツアーの後、3カ年の助成プログラムがスタートし、私はこのプログラムをまず担当しました。アーティストに、自分自身のことと何をやりたいかについて、1~2ページ程度の助成申請書を書いてもらいます。採択についてはアムリタの理事会が決定し、毎年10件から25件程度のプロジェクトを助成します。大きな金額ではないですが、1件につき500~1000米ドルがあてられ、作品創作に使われました。
多くの、特に若い世代のアーティストがどうしても新しい作品がつくりたいと応募してきました。彼らの作品は特別で、古典舞踊のスタイルをとっていてもなお、そこには何か新しい考え方や試みがみられます。伝統舞踊に取り組んでいても、ときにこのような有機的な変化が、若い世代の作品にみてとれるのです。彼らはモティベーションも高く、この助成プログラムを通して、私たちの認識も更新されます。