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ファリッシュ・ヌール――境界から見える今日の東南アジア:人々の暮らしから将来のASEAN統合を考える

Presentation / Asia Hundreds

ASEAN国境におけるTシャツの密輸:現場の実態

長たらしい、けれども重要なエピソードから話を始めたいと思います。2003年、私は東南アジアのいくつかの場所で、2001年9月の米国におけるテロ以降に生じた、いわゆるテロとの戦いに対する東南アジア社会の反応に焦点を当てて広域調査を行なってきました。長期間に渡る調査の間、私は東南アジアの多くの土地を訪れ、マレーシア、インドネシア、タイ、ベトナムで何十回ものインタビューを行ないました。その中でも特に興味深かったのは、タイ南部、マレー半島北方州と国境を接するサトゥーン県での出来事でした。 サトゥーン県での滞在は短いものでしたが、私は仏教徒が大多数を占める国タイが、オサマ・ビン・ラディン像がプリントされたTシャツの最大生産国のうちのひとつだと知りました*1。当時そのTシャツは希少価値のある流行品であり、東南アジア中で、あらゆる職業、地位、世代にある人々が公然と、そして多くの異なる、時として相反する理由でこのシャツを購入していました。私は、マレーシアとの国境をまたいでそれらを売っている、あるTシャツ製造グループの若者たちにインタビューを行ないました。

*1 Farish A. Noor, "When Osama and Friends Came a-calling: The Political Deployment of the Overdetermined Image of Osama ben Laden in the Contestation for Islamic Symbols in Malaysia" in Media, War and Terrorism: Responses from the Middle East and Asia, eds. Peter van der Veer and Shoma Munshi (London: Routledge Curzon, 2004), 197–223.

ジャンビ川で現地調査中のファリッシュ・ヌール氏(インドネシア、スマトラ)

これは、私が現地調査でインタビュー対象者の後をついてまわった時のことです。私たちは新聞紙に包まれた何百着ものオサマ・ビン・ラディンTシャツを持ち込む彼らの後を追い、何度か国境を越えてマレーシアへ入国しました。Tシャツは時には合法に持ち込まれましたが、しばしばジャングル奥地の非公式ルートを経由して、それらを買い、地元の顧客に利潤を上乗せして販売しようとする購入者へと密輸されました。私はこのTシャツ製造者と密輸業者たちから、彼らがTシャツをインドネシアのスマトラへも、合法にも、そして違法にも、海路で輸出していることを知りました。

東南アジアと同地域の複雑な国境地帯に関する私の研究人生の中で、最も好奇心をそそられたこの出来事は、多くの疑問を私の心の中に浮かび上がらせました。

    • そもそも、なぜ仏教徒であるタイ人の若者たち、彼らの幾人かは十代であったが、オサマ・ビン・ラディンのTシャツを製造していたのか?*2
    • タイとマレーシアの国境を、そして隣国であるインドネシアのスマトラとの海上の国境を、彼らはどのようにしていとも簡単に越えたのか?
    • 彼らは、タイ南部-マレーシア北部-スマトラ島北部の地域間に帰属意識を感じていたのか?そして、彼らの政治・経済・倫理的世界は、彼らが居住する国境地帯を越えていたのか?

*2 この特定の疑問を説明するためのエピソードを提示したい。タクシン・チナワット首相率いるタイは、「アメリカのアジアにおける第一の非NATO同盟国」の地位に成り上がった。しかしこれは、彼らが受けるに値する経済・社会的配慮を与えられていないと感じた南部の若者たちにとっては、ほとんど意味がなかった。私がインタビュー対象者のひとりに、オサマ・ビン・ラディンのTシャツは、彼自身がビン・ラディンもしくはアル・カイーダの支持者だということを表しているのか、と尋ねた際、彼は率直にこう即答した。「もちろん違うさ!俺たちはアル・カイーダなんて、タイにいてほしくないよ。でもオサマはアメリカを嫌っていて、アメリカはタクシンと友達だろう。だからこれは、タクシンがアメリカと友達でいることへの怒りを示す、俺たち流のやり方なんだ!」これは、有機的で現場レベルのレアル・ポリティークが、単純な話し言葉で説明された事例であり、まったく信用できる話である。

インドネシア、カリマンタンのマハカム川を渡るダヤク人家族
マレーシア、サバの海辺にあるバジャウ人の村

これらの疑問に対して私が受け取った答えは、東南アジアの国境は、ガバナンスとステイトクラフト[政治技術、統治術]というテクノクラシー(テクノクラート[専門家]による政治支配)の領域では生活も労働もしていない普通の人々から見ると、ほとんど意味も価値もない、まさに人工的な構築物である、という私の心中にあった信念を確固たるものにしました。何度も何度も、私は類似した答えにたどり着きました。つまり、南部の若いタイ人たちにとって、彼らがおかれたバンコクからの地理的な距離には、国家からの疎外感と、政策立案者によるテクノクラシーの関心事に向けられた何気ない軽蔑の態度が伴っているということです。私がインタビューした若いタイ人たちは、他の問題も抱えていました。彼らは、同国南部における暴力、周辺の貧しいインフラに見受けられる南北間の明白な開発格差、そして国のエリートの間では優先事項になっていないと彼らが感じていた、彼ら自身の経済的未来について、より憂慮していたのです。

彼らに「故郷」という感覚と帰属意識について尋ねると、回答者の多くは、南部のタイ人として、マレー半島北部のプルリス州、クダ州、クランタン州のマレー人とより多くの共通点があること、そして彼らの多くが国境を越えた現実的かつ有機的な関係を有していることを主張しました。彼らの友人や商売仲間はマレーシア人であり、マレーシア人と結婚している者もいました。また、北スマトラの人々と近しい関係を有する者もおり、この長期的な接触と定期的な商業上の交流の結果、彼らの精神世界はタイ南部、マレーシア北部、そしてスマトラ北部を含むものとなりました。一方、バンコクは異質で遠く離れており、よそよそしくて無関心な都市のエリートと専門家たちが住む場所として認識されていました。同様に、クアラルンプールとジャカルタもまた、彼らの生活の日常的現実とは遠く切り離されており、彼らの要求や関心事とは無関係な都市の中心であると見なされていました。

では、ASEANとは「どこ」か?

これらの観察結果は、逸話的な出来事に由来したものですが、他に類を見ない特別なことではありません。東南アジアの地域を横断して行なった調査を通じて、私は越境移動、そして、国境を越え、地元の環境に根差し、有機的で意味のあるアイデンティティの同化と形成に遭遇してきました。スラウェシの、海の放浪者と呼ばれるバジャウ・ラウト[Bajau Laut]という民族は、バジャウ[故郷の地]は海であり、「バジャウの世界」はセレベス海からカリマンタン(インドネシア)、ミンダナオ、スールー、パラワン(フィリピン)、そしてサバ(マレーシア)からブルネイまで延々と広がっている、と実に自然なこととして信じています。「故郷の地」が、サラワク(マレーシア)とカリマンタンの国境にまたがっている、多様なダヤク人コミュニティについても、またベトナムとカンボジアに分散して存在するモン族についても、同じことが言えます。危機の時代でさえ、近年のタイとカンボジア間のプレア・ビヒア寺院をめぐる政争においても、国境の両側に生きる人々は、隣人に対して敵意を抱いておらず、それどころか互いを友人、親戚と見なしているのです。

これらすべてがポストモダン的で高度に洗練されているように見えますが、この複雑性は実はひとつも新しいものではありません。ベネディクト・アンダーソンの国民と国家建設に関する研究では、あらゆる国家というものが想像の産物であること、それらがいかに物としてではなく、むしろ心の中の存在論的な物体として存在しているかを私たちに気づかせてくれます。また、K.N.チョードリー、G.セデス、ポール・ミシェル・ムノスのような歴史学者の研究は、私たちに別の東南アジア像の理解を提供すると共に、その姿を想像させます。つまり、国境が存在せず、モノや商品だけでなく人や考え、信念体系[belief system]までもが日常的に容易に移動し、これが中央集権化を困難にさせる、別の東南アジアを想像させるのです*3

*3 K.N.チョードリーの研究は、おそらくこの点において最も教育上得るところが大きい。チョードリーによる、国境と国家アイデンティティの時代以前のアジアの歴史は、私たちが今日言うところの「アジア」の大半が、西洋の植民地主義、および帝国主義とアジアとの遭遇の産物としての言説政治的な構築物であるという事実を気づかせてくれる。詳細は以下を参照されたい。K. N. Chaudhuri, Asia before Europe: Economy and Civilisation of the Indian Ocean from the Rise of Islam to 1750 (Cambridge: Cambridge University Press, 1990) .

東南アジアの歴史と政治に関する現代の学問は、東南アジアというものがそもそも、植民地時代になってはじめて支配と統治の過程に不可欠な部分として出現した「言説的な構造物」*4であるという、つくられたものとしての性格を強調します。アンソニー・リードのような学者の研究は、西洋植民地主義が、特に人種化された植民地主義的資本主義時代以降、東南アジアを明確な部位とブロックに分割しようという態度をとったにも関わらず、そこには常に、人の接触[human contact]と交流が行なわれる重複領域と、効果的に消滅させることが不可能な言語、文化、宗教、そして歴史の結束が存在していたことを示しています。その結果、現代のガバメンタリティ[統治性]の絶頂においてさえも、前近代の痕跡が常に残存するようになったのです*5。スタインバーグとミルナー*6の研究に見られる議論は以下のことを示しています。今日の東南アジアは国家装置が実在し、可視的な近代国民国家によって構成されています。しかしながら、近代国家とそのステイトクラフト、行政、国家管理の導入は、上記した前近代の結束を衰えさせてはいないのです。

*4 Farish A. Noor, The Discursive Construction of Southeast Asia in the Discourse of the 19th Century Colonial-Capitalist Discourse (Amsterdam: Amsterdam University Press, 2016).

*5詳細は以下を参照されたい。アンソニー・リード『大航海時代の東南アジア 1450-1680年(2)拡張と危機』、平野秀秋・田中優子訳、法政大学出版局、2002年。

*6 David Joel Steinberg ed., In Search of Southeast Asia: A Modern History (Honolulu: Hawaii University Press, 1985); Anthony Milner, The Invention of Politics in Colonial Malaya: Contesting Nationalism and the Expansion of the Public Sphere (Cambridge: Cambridge University Press, 1995).