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批評性をもったアートと環境を、地方でつくる――柳幸典講演(Innovative City Forum 2016)

Presentation / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

東京から離れ、地方で活動する理由

こんにちは、柳幸典と申します。僕は日本の辺ぴな離島に住んで活動しています。実は、正直申し上げてあまり東京を良く思っていません。なぜなら、東京に一極集中しすぎているからです。それはつまり、労働者、自然、文化もすべて地方から色々なものを搾取していることを意味します。僕はそのことにすごく疑問をもっていて、だからこそあえて東京から離れた島でプロジェクトに取り組んでいます。
2020年のオリンピック・パラリンピックに向けて、東京が活性化するのは喜ばしいことです。ただ、同時に地方も浮き上がってくると、より素晴らしいものになると思っています。 東日本大震災の直後、福島第一原子力発電所の事故が起きました。東京で使用する電力は福島で発電され都市部へ送られている、言うなれば地方の犠牲の上に都市部が維持されているわけです。そういった都市部と地方の主従関係を念頭において、プレゼンテーションを見ていただけたらと思います。

Innovative City Forum 2016で発表する柳幸則氏の写真

近代化の過程で失われたものとその遺跡――犬島との出会い

日本の瀬戸内海の東側に犬島諸島があります。このなかで一番大きい島が犬島*1 です。とはいえ非常に小さな島で、人口が40人ほどしかいません。橋もないのでとても不便です。
僕はちょっとしたきっかけがあってこの島を知りました。当時(1990年代初頭)僕はニューヨークに住んでいて、アートマーケットは活況を呈し始めていました。ものすごく高額な取引が日々行われる、いわば資本とアートの共犯関係とも言える現実に疑問を抱き始めていた頃でした。日本で、自分の魂に従うようなライフワークに着手したいと考えるようになり、そういう場所を探して方々を回っていたときに出会ったのが犬島だったのです。

*1 犬島は、瀬戸内海に位置する犬島諸島最大の島。岡山市内唯一の有人離島でもある。古くから銅の製錬業と採石業などで隆盛をきわめてきた歴史があり、現在も当時の遺構が残る。2008年の犬島精錬所美術館開館以降、現代アートの島としても知られるようになっている。

Innovative City Forum 2016で発表する柳幸則氏の写真

ここには明治末期時代の銅の製錬所の廃虚*2 があります。最盛期には2000人を超える労働者が働いていたそうで、きっと公害もひどかったのではないかと想像します。明治時代は、日本が必死に西洋のまねをして近代化を推し進めていった時期です。近隣のアジア諸国にも手を伸ばし、欧米に倣ってアジア諸国を植民地化していきました。その欲望の行き着く先が「戦争」だったわけです。近代化の過程で、日本は多くのものを得ると同時に多くを失ったとも僕は思っています。忘れ去られ、失われたものが、ここには遺跡と共に残っています。

*2 犬島製錬所は、1909年に開設・操業を開始。一時は活況を呈したが、銅の価格暴落の影響により1919に操業停止、1925年には廃止になった。

同じく瀬戸内海で、犬島の近くにある豊島で起きた産業廃棄物不法投棄事件*3 はよく知られていますが、犬島の廃虚にも産業廃棄物が捨てられそうになっていました。当然、それらは都市部からの廃棄物——生活者が出すものであったり、取り壊された建築物の廃棄物であったり——です。そういった都市部から排除したいものが、地方に持ち込まれた。瀬戸内海は、遠くから眺めると素晴らしく美しいところですが、近くで見ると自然が搾取され、廃棄物が投棄されている現実があります。明治時代の近代化産業遺構に現代の産業廃棄物が捨てられそうになっている事実だけでも、とても強いメッセージ性を持っている。僕は、そういったものとアートを組み合わせることですごいものを生み出せると思いました。
そして重要なのは、廃虚がある場所には古い神社もあって、八百万の神々と暮らすような昔ながらの人々の生活が残っていることです。

*3 1970年代半ばから約16年間にわたり続けられた、民間企業による産業廃棄物の違法・大量投棄が発端となった事件。1990年に兵庫県警が摘発、2000年に公害調停が成立したが、現在も撤去や汚染の問題が続いている。

犬島に特有の要素で僕が興味をもったものがいくつかあります。ひとつは、犬島が江戸時代より花崗岩(犬島石とも呼ばれる)の原産地であり、巨大な石が採れる地として有名だったこと。潮の満ち引きを利用して巨大な石を運んでいたそうで、島のあちこちに採石場が点在しています。その石は鎌倉まで運ばれていたようです。もうひとつは煉瓦です。銅の製錬過程で出来る、金属質で重いカラミ煉瓦というものがあります。
犬島には発電所の廃虚もありますが、以前は煤煙(ばいえん)を出して石炭を燃料に使って精錬所のエネルギーを賄っていました。僕はこの島に根付いている歴史を踏まえて、太陽や地熱などの自然エネルギーを使って再生させようと思い立ちました。これが、「犬島プロジェクト」*4 の始まりです。

*4 1995年に「犬島プロジェクト(当時)」として構想された犬島で展開するアートプロジェクト。「在るものを活かし、無いものを創る」というコンセプトのもと、柳が建築家の三分一博志氏と協働し、着想から10年以上たった2008年に犬島精練所美術館を開館。カフェやミュージアムショップも併設。

Innovative City Forum 2016で発表する柳幸則氏の写真

ほかにも特有な要素として、島全体にわたって江戸時代からの石切り場が深い池になったところがたくさんあります。こういった島特有の要素すべてを使って、島自体を芸術にしたかった。この点は、アン・ミン・チーさんがおっしゃっていた「ジョージタウンの街そのものがミュージアム」という考えと共鳴するところがありますね。例えば、瀬戸内海の島々に昔はたくさんあった美しい段々畑は、ベトナムにもあると思います。そういうものをランドアートとして見ることもできる。アートという概念は「ミュージアム」に収まるものだけではない。生活と一体化して、人間の営みと対になるものではないでしょうか。

アートと建築を一緒につくりあげる——犬島精練所美術館

Innovative City Forum 2016で発表する柳幸則氏の写真

犬島製錬所の廃墟を見たとき、僕はイカロスの神話を思い出しました。ご存知の方も多いかと思いますが、この神話はミノスの王によって地下迷宮に幽閉されたイカロスと父のダイダロスが、蝋で固めた翼を作って塔から飛び立って脱出する。けれど、太陽に近づき過ぎたところで蝋の翼が溶けて海に落ちてしまうお話です。はるか昔の神話ですが、近代主義、人間の傲慢さ、テクノロジーの過信に対する批判を表象していると思います。

僕には、この神話と犬島製錬所がすごく重なって見えたのです。それで、ここに「イカロス」をモチーフとするアートサイトを作りたいと思いました。このアイデアをもとに、協働する建築家をスポンサーと共に選定し、2008年に完成したのが犬島精練所美術館です。

犬島精練所美術館外観の写真
犬島精錬所空撮 (C)YANAGI STUDIO

1950年代半ばから70年代にかけての日本の高度経済成長期は、建築家やファッションデザイナーがどんどん海外進出し、行政はものすごい勢いでハコモノの美術館をオープンした時代です。一方でアーティストはなかなか世界に出て行けなかった。それはアートに比べて建築は経済と密接に関係しているからでしょう。アートはなかなか経済活動とは相いれません。僕がアーティストを目指したのも、アートの領域が資本主義と一線を画し唯一批評精神を持ち得る仕事だと思ったからです。日本の美術館、建築家はアートを建築の飾りみたいに利用するところがあって、僕はそれにすごく不満をもっていた。ならば自分でアートという御本尊を入れるための「器」を作るしかない、そう思ったんです。

犬島アートプロジェクトは、最初にアーティストつまり僕の構想があって、次にアートと建築のコラボレーションという過程を経ました。この島は岡山県のものすごく田舎に位置しています。ですから、東京にないものを作りたい、地元の技術を駆使し地元の人材を育てたいという思いで、プロジェクトに出資してくれる直島福武美術館財団(現在は福武財団に統合)の方々と一緒に、建築家も施工を担うゼネコンもなるべく地元から探しました。しかし、地方の人たちになかなかアートが理解してもらえず、正直苦労しましたね。 結果的に、広島在住の建築家と協働して犬島の環境と製錬所の機能と特徴を生かした設計をしました。空調や湿度を管理・制御する機械室もなく、自然エネルギーのみを利用しています。例えば空調は、煙突効果*5 と呼ばれる現象を利用する仕組みを使って、製錬所の煙突が賄っています。夏は地熱を利用して外気を冷やし、冬は美術館内のガラス室に注ぐ太陽熱の温室効果によって気流が発生する仕組みです。
ここで、先ほどのイカロスの神話を思い出して欲しいんです。技術者、発明家として知られる父ダイダロス、地下の迷宮の創造者、塔からの飛翔、気流の上昇と太陽の熱など、神話で登場する人物やモチーフと重なります。犬島精錬所美術館に訪れる人は、それらのメタファーと共に美術館を体験するのです。

*5 温度の高い空気は上昇する性質がある。そのため、煙突内に外気より高温の空気があると、それが上昇し、代わりに煙突下部の空気取り入れ口から外部の冷たい空気を煙突に引き入れる。これにより室内に気流が生じる現象をいう。

「三島由紀夫」の空間と思想を再生する——犬島精練所美術館の作品群

Innovative City Forum 2016で発表する柳幸則氏の写真

そうしてつくりあげていった犬島精練所美術館の建築と一体となった作品も、イカロスの神話がヒントになっています。もうひとつこの神話から着想を得た要素が、小説家であり政治活動家の三島由紀夫です。1967年3月14日、自衛隊の戦闘機F104DJ機の後部座席に搭乗した三島は、即興で「イカロス」という長詩*6 を作っています。その「三島由紀夫」を、美術館という建築と作品の真髄に登場させたいと思いました。文化を顧みず、経済成長のみを追及していた戦後日本を批判し、最後には自害するような「パフォーマンス」*7 まで行った芸術家・三島を、近代化の過程で置き去りになり廃虚と化した犬島製錬所、そしてイカロスの神話と融合させたいと模索していたんです。

*6 三島由紀夫の自伝的随筆・評論集『太陽と鉄』(講談社、1968年)に所収。

*7 「三島事件」。1970年11月25日、三島由紀夫は憲法改正を訴えるため、陸上自衛隊市谷駐屯地で自衛隊のクーデター決起を呼びかけた後、切腹自殺を実行した。

そんなときに偶然、三島が生前住んでいた家が解体されていると聞き、これを切り刻んで作品にしようと思い立ちました。そうやって、東京の渋谷区松涛にあった家を田舎の辺ぴな所である犬島に転生させた作品が《ソーラー・ロック》です。

作品の写真
柳幸典 《ソーラー・ロック》 (C)YANAGI STUDIO

実際には建具しか残っておらず、移築をするわけにもいかなかったので、家を分解してアートの材料にしました。ほかに、この作品には約50トンもある石も持ち込んでいます。これだけ大きな石をアートに使うのは石の産地であるこの島でしかできないことです。これを美術館の中に入れて、水を張りました。その上部には、三島の3畳間の小さな書斎の建具をぶら下げて再現しています。そして、水盤には黒い太陽が映り込んでいます。

同じ美術館に展示している《イカロス・タワー》という作品には、男性用の便器が転がっています。これも三島の家にあった、実際に彼が使っていたものです。美術史に少し詳しい方はわかると思いますが、マルセル・デュシャンの便器*8 へのオマージュでもあります。

*8 マルセル・デュシャン《噴水(泉)》(1917年)は、既製品をそのまま使用または少し手を加えたものをアートとする「レディ・メイド」の作品として発表され、物議を醸した。コンセプチュアル・アートの先駆けとされている。

作品の写真
柳幸典 《イカロス・タワー》 (C)YANAGI STUDIO

ちなみに、この美術館の各部屋はそれぞれ三島の家の部屋を再現すると同時に、建築的な機能も担っています。《ミラー・ノート》という作品は、三島の家の6畳間を再現していますが、建物の外部と内部の空気を遮断する風除室でもあります。

作品の写真
柳幸典 《ミラー・ノート》 (C)YANAGI STUDIO

この部屋の鏡には、三島の『英霊の聲』*9 にあるテキストが映像で流れています。「などてすめろぎは人間となりたまいし(天皇陛下よ、何故貴方は人間になってしまわれたのか)」という先述の『英霊の聲』での呪詛の言葉です。三島はこの言葉を死者の立場から書いています。つまり、天皇が神であったからこそ、戦士達そして遺族は彼らの死に意味があったのだと納得できたのに、人間だとなれば、戦死者は犬死したことになる。『英霊の聲』で反復されるこのフレーズは、二・二六事件の青年将校と特攻隊員の立場から、天皇に捧げた忠誠が裏切られた憤りを語っているのです。

*9 『文藝』(1966年6月号)に所収。同年6月30日、河出書房新社から単行本として刊行。

このほか、三島由紀夫の8畳間をもとにした《ソーラー・ノート》という作品では、三島が自決する直前に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから読み上げたマニフェストを、金メッキの鉄の切り文字にしてぶら下げています。この文章には戦後の日本の体たらくに対しての三島の怒りが書かれています。真ん中には三島が使っていた旅行用の鞄を置いて、全体の構成としてギリシャ神話にあるパンドラの箱をイメージしました。

作品の写真
柳幸典 《ソーラー・ノート》 (C)YANAGI STUDIO

ここまでご紹介してきた4点のほかにイカロスの迷宮を思わせる《イカロス・セル》と製錬所のスラグを使った《スラグ・ノート》という作品があり、計6点を総称して《ヒーロー乾電池》と名付けました。それぞれが三島の松涛の家からの廃材と犬島の環境を利用しています。「ヒーロー乾電池」とは、三島の家の玄関の呼び鈴に使われていた電池の商品名で、それをそのまま作品名にしました。死者—歴史と交感するための呼び鈴とも言えます。

作品の写真
柳幸典 《イカロス・セル》 (C)YANAGI STUDIO
柳幸典 《スラグ・ノート》2008年
柳幸典 《スラグ・ノート》 (C)YANAGI STUDIO

アートの蘇生術——廃墟にあらたな可能性を見出す

別の島で行ったプロジェクトもご紹介します。都市部による地方の搾取の例として1994年に開港した関西国際空港が挙げられます。この空港は完全な人口島で、埋め立て用の土にするために、近隣の島々の山が切り取られたり、島が丸ごとなくなってしまうこともありました。そういった現実もうけて、小さな島を一つの生命体として見る「小鷺(こさぎ)島(じま)ビオアイル計画」というプロジェクトを進めました。現地で調査をしながら、空き家を再生したりギャラリーを作ったりしています。

百島という島では、「ART BASE MOMOSHIMA」*10 という、廃校をセルフ・リノベーションして美術館にするプロジェクトを行っています。ここではトイレもギャラリーにしていて、廃油や排気ガスまで作品になり、臭くて通常の美術館では到底展示できない作品などを置いています。それから、廃墟になってしまっていた映画館もリノベーションしました。「旧百島東映再生計画」*11 というプロジェクトです。改修後に島の人たちを集めて16mmの『モスラ対ゴジラ』を上映しました。なぜなら、この映画がここの最後の上映作品だったからです。今後も島内で美術作品を展示するとか、島全体で色々なことをやりたいと考えています。

*10 1999年に閉校した旧百島中学校舎をアートセンターとして再活用するプロジェクト。2010年に廃校だった校舎をセルフビルドで協働者達と共に改修、約2年かけてアートスペースにした。「ART BASE MOMOSHIMA」として2012年11月4日に開館、現在は館内作品を入れ替えながら、毎年秋に企画展を開催。

*11 2014年8月13日に上映会を実施。もととなった映画館「百島東映」は1964年に開館し、70年代前後に閉館。

尾道でのプロジェクトもご紹介します。瀬戸内海に浮かぶ島々への船は、多くが広島県の尾道から出ていました。そのため、尾道の中心地や湾岸には倉庫がたくさんありますが、新しい耐震基準を満たしていないため使うことができず、ただ放置されてしまっています。これは、僕にとってはすごくもったいない話なんです。正直、既存のホワイトキューブの美術館ではなかなかイマジネーションが湧かないのですが、こういった場所は何でもできるから作品のイメージも広がります。広大な空間もあって、穴を開けても釘を打ってもOKなんてことは、日本の美術館ではありえません。
2014年にはこの倉庫のひとつで「十字路―CROSSROAD」という企画展*12 を開催しました。同じく耐震強度の不足を理由に、倉庫内に不特定多数の人を入れることを禁止されたので、日本の恥部を覗くというコンセプトにして、中には入らずに外から覗く展覧会にしてしまいました。 それから、同じこの倉庫で2012年に開催した「柳幸典×原口典之」展では、巨大な作品を展示しました。原口典之*13 さんの作品は、朝鮮戦争やベトナム戦争で使った戦闘機の尾翼を作った作品群のひとつである《F-8E CRUSADER》を、僕は日本の憲法9条をネオンで作った《アトミック・アーティクル9》を展示しました。いずれも、通常の美術館では展示が不可能な規模や内容です。

*12 「十字路―CROSSROAD」展(2014年9月13日~10月26日)。西御所県営上屋3号と百島東映旧映画館の2会場で開催。参加作家は、石内都、原口典之、柳幸典、ブルース・コナー。

*13 原口典之(はらぐち・のりゆき)1966年より美術家としての活動をはじめ、「もの派」、「ポストもの派」を代表する作家として活躍。1977年「ドクメンタ 6」(カッセル、ドイツ)で発表した、鉄製の浴槽に廃油を流し込んだ《オイルプール》が世界の注目を集める。以降、物質そのものの美しさ、素材感、「つくらないこと」を追求しつつ、素材のもつ存在感を十全とせず、場の生成に介入するような作品を制作。

Innovative City Forum 2016で発表する柳幸則氏の写真

現在(講演が行われた2016年10月)、横浜のBank ARTで個展*14 をしていますが、そこも倉庫を改装した「アートセンター」です。この展示では、犬島にあるイカロスの迷路を再現しています。犬島は建築的な規制がかかってしまうぶん、アーティスティックにやりきれないところがありましたが、Bank ARTではそういう規制を超えて思う存分やっています。
この迷路のような作品は、本当はジグザグの通路ですが、鏡を迷路のコーナーごとに置くことで直線に見えます。路の行きつく先の明かりは空で、天窓から光を取り入れてイカロスが飛び立っていくイメージを表現しています。コーナーにはめたガラスには、三島由紀夫の書いた「イカロス」の詩を刻んでいます。

*14 「柳幸典~ワンダリング・ポジション」展(Bank ART Studio NYK、2016年10月14日~2017年1月7日)

写真
個展:ワンダリング・ポジション「犬島模型」 (BankART studio NYK, 2016)
(C)YANAGI STUDIO
写真
個展:ワンダリング・ポジション「Icarus Cell」「Absolute Dud」 展示風景(BankART studio NYK, 2016)
(C)YANAGI STUDIO

他に、ゴジラをイメージした作品は、廃材を山のように集めて大きな目玉を据えています。ゴジラって太平洋から現れますよね。アメリカによる水爆実験で巨大化したのですが、太平洋の戦争での死者の霊ともいえる。つまり、ここでも近代以降の科学過信による人間の傲慢さ、それが原因となって生じてしまう犠牲について触れています。

アートは目的であって、手段ではない

このように、地方でその土地の歴史や特徴を活かすアートに取り組んできました。僕が東京ではなく、こういった環境でアートを追求していくのは、自由が欲しいからなんです。それは、自分が制作する環境を選ぶ自由のことです。最近は地方創生で地域に公的補助金が回り、アートがまちおこしのために利用されていますよね。僕がよく仲間と話すのは「アートは目的であって、手段ではない」ということです。アーティスト自身が目的を失うと、アートはどんどん手段に利用されていってしまいます。スポンサーやパトロンが必要なのは事実ですが、そのことによってアートの形態も文化の形も変わります。その影響に意識的であること、そしてその影響力をうまく利用し、批評性を保ちながら、アーティストは尖ったものを制作していくことが重要ではないでしょうか。僕自身、主流となっている「美術館」や「アート」に取り込まれず、「都市」に対するアンチの態度を提示し続けていくようなアートと環境をつくっていきたいと、いつも考えています。

Innovative City Forum 2016ディスカッションの様子の写真

参考情報

ART BASE MOMOSHIMA

犬島精錬所美術館


編集:柴原聡子