ASIA center | JAPAN FOUNDATION

国際交流基金アジアセンターは、アジアの人々の間に共感や
共生の心を育むため、様々な分野で文化交流事業を実施しています。

MENU

マ・ティーダ――良心の囚人 —独房から心を解き放つ—

Presentation / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

投獄前

みなさん、こんにちは。本日はこのような機会をいただき、国際交流基金アジアセンターと上智大学、そして根本敬教授に感謝しています。本日は私の経験を少しお話ししたいと思います。自由は、与えられる権利ではなく、自主的な選択だと考えております。これは、1990年代中盤に私が刑務所にいたときに実感したことです。本日はそのことについてお話しさせていただきます。

私は、1988年当時アウンサンスーチー女史が率いる国民民主連盟(以降、NLD)の情報部門に所属し、ミャンマーの民主化運動に参加していました。1989年7月、アウンサンスーチー女史の自宅が軍事政権に踏み込まれ、軍事政権の軟禁下に置かれました。私はNLDの情報部門だったので、そういった記録も取らねばなりませんでした。スーチー女史は1人で軟禁下に置かれ、そして私の仲間の多くは投獄されてしまいました。そんな渦中にあっても、私は民主化運動をやめず、憲法制定国民会議に抵抗していました。というのも、1990年の選挙に勝ったNLDへの政権移行を国民会議が拒み、新憲法を制定しようとしていたからです。当時、民主化活動は犯罪とされており、民主化運動をしていた仲間たちはそれぞれ約7年の判決を受けていました。1993年10月10日、私は刑期20年を言いわたされました。緊急規定法第5条J項違反で7年、非合法結社取締法17条1項違反で3年、非合法出版物取締法17条違反と20条違反でそれぞれ5年、合計20年でした。

アウンサンスーチーとともに民主化運動に参加するマ・ティーダ氏
アウンサンスーチーとともに民主化運動に参加(後列左から3人目)

実のところ投獄は少し楽しみでもありました。それまでに他の人の獄中記を読んだことがあり、私もいつかは書いてみたいと思っていたのです。それでも、実際に投獄された直後は自由が奪われていると感じました。しかし、それから時間が経過するにつれ、刑務所ですら私から自由を奪えないのだと気付きました。もちろん、私は狭い独房に押し込められていたので、読み書きも許されず、友人や親戚、仲間たちとは連絡すら取れませんでした。私の世界は3.6メートル×2.5メートルの独房だけでした。刑務所での暮らしは、あらゆることを禁止されてかなり厳しく、今日の暮らしとは比べものにもなりませんでした。様々なルールや規制、指導を目の当たりにし、いろいろと考えさせられました。「私はもう何もできないのだろうか」と、何度も自分に問い続けました。けれど、私の答えは常に「ノー」でした。

自分自身で傷つくことを認めなければ、だれも私を傷つけることはできないと考えました。そして、自分の権限[心の強さ]を失ってはいけないと気が付きました。刑務所が自分にとってのチャレンジ[立ち向かうべき壁]になってはいけない、と自分に言い聞かせました。自分が刑務所にいることと、どう向き合うかが本当のチャレンジだと思ったからです。確かに運命は変えられないかもしれないが、それにどう向き合うかは自分自身で決めることができるはずだと思いました。今おかれている状態に、立ち向かうか逃げ出すかの選択は、私が自分の意志で決めるべきです。自由は私の権利であり、私が自ら所有しているものなのです。それなのに、なぜその自由を手放さなければいけないのか。自由を諦めるまで、もしくは自由を諦めない限り、私は人生の難局にどう向き合うかを自分で決められるし、自由を手に入れることができるのです。自分でどう生きるのかは自分で決められるはずだと思いました。これが、独房の中であっても、私が自分の人生を生きることができた理由です。

講演するマ・ティーダ氏

私の獄中生活の回想記Prisoner of Conscience: My Steps Through InseinChiang Mai: Silkworm Books, 2016)から、一節を読み上げたいと思います。これを書いたのは、釈放から10年後で、ミャンマー語で初版が刊行されたのが2012年の民政移管後のことでした。英語版は2016年に出版されました。投獄中は読み書きが許されなかったので、全て自分の頭の中でこの獄中記をまとめてきました。こういった原稿を残すことすら、危険なことでした。刑務所に収監されていた1995年、私はとてもひどい病気でした。この刑期自体も非合法で、軍事法廷で出されたものでありました。つまり本当の罪を犯した人ではなかったのです。

インセイン刑務所での日々

1995年6月7日、私はとても具合が悪くなり高熱を出していた。吐き気とげっぷに襲われ、不正出血が起きていた。掃除婦に手伝ってもらい、水がめや洗面器、そしてふた付きの汚物入れなどをベッドの回りに並べていた。まるで丸く並べたビルマの太鼓みたいだった。そこへ看守が何人かやってきて、私の荷物をまとめだした。インセイン総合病院に私を搬送するというのである。そのようにして私は、ほぼ1年ぶりに悪名高き刑務所の外に出ることになった。インセイン総合病院に着いたとき、辺りは暗かった。自由を感じることはほとんど無理だった。なぜなら、そのときも白い囚人服を着ていたからだ。慣れ親しんだ病院という場で、昔の私だったら白衣を羽織り、首から聴診器を掛けていただろう。知らない人から見たら、囚人服を着て看守に脇を固められた、病気の犯罪者が国立病院に診察に来たように見えただろう。そんな姿をさらしていることに恥ずかしさすら覚えて中に入っていったのだが、呼吸のたびに走る痛みをこらえつつ、どうでもいいやと考える自分もいた。

外科医として貧しい人々の無料診療にあたるマ・ティーダ氏
外科医として貧しい人々の無料診療にあたるマ・ティーダ

既に日が暮れていたために、点滴を打ってくれたのは若手の医者で、他の中堅の医師はとうとうその夜は姿を見せなかった。翌朝8時半ごろ、婦人科医が私を診に来た。しかし、診察を始める前に病院の医局長から連絡が来て、私をすぐに退院させ刑務所に戻すよう指示があった。全く理解できず、またとても驚き落胆した。医師は、まだ診察すらしていないと説明してくれたが医局長は、「さっさと『希望により退院』という欄に署名をさせろ」と言った。医局長は、看守長と刑務所員の命令に背けなかったのだ。医局長や当局の人々が待っていた。私はアドレナリンが出て力が湧いたのか、看守長と担当の女医のほうに向き直し、こう言った。「治療を受けさせずに私を刑務所に連れ戻すのは、あなたたちの意思だ。従って私の身に何かあっても、それは病院のせいでもないし医師のせいでも私のせいでもない。全て完全にあなたたちのせいだ。言っておくが、これはあなたたちの責任問題だ。覚えておくといい」。私は全ての袋を抱えてトラックの段差を上った。

刑務所に戻ると看護師がやってきて、私の薬を全て刑務所の医務室で預かると言った。受け入れられないことだった。薬は、両親がお金を出して私のために買ってくれたものだし、刑務所仲間に分けてやることだってあったからだ。当時、当局は一般的な薬ですら囚人に渡すことはなく、家族に買わせて、それを差し入れさせる仕組みであった。薬は独房内に置いておいてもよいことになっていたが、それを取り上げようとしてきたのだ。そこに女性刑務所の担当医がやって来て、きっぱりこう言った。私の身に何かあれば自分たちのせいだと私が言ったからには、私の薬を管理するのも彼女の責任だというのだ。薬の入ったかごを無理やり私の手から奪おうとしたが、力を振り搾ってそれを拒んだ。ハンガーストライキをしてやると宣言したが、そのころ、私は半年ほど熱が続いていて体重は36キロしかなかった。独房から忍び出て、怒りに任せた足取りは素早く、体は葉っぱのように震えていた。予想した通り、ものの15分もせぬうちに整列の号令がかかり、私はベンチの上に座った。

私たちのブロックの鉄の扉が開き、制服姿の男が数名、私のほうに近寄って来た。ある者は獲物に忍び寄るかのような厳しい表情で、ある者は私を思い通りにしようと優しげな表情を浮かべていた。彼らは、私の要求は何かと聞いてきた。私はぶっきらぼうに答えた。「一つ、自分の薬を取り上げられることは受け入れられない。二つ、女性区画の担当医の治療は一切受けたくない。別の医師に診察してほしい」。そして、なぜ薬を取り上げるのかとも聞いた。「なぜなら、これらの薬を使って自殺しかねないからだ。お前ならそれも可能だ。なにせ薬のことは全て分かっているのだから」と、副看守長が柔らかな口調で答えた。もし本当に死にたいなら、私を裸にして独房に閉じ込めたとしても、頭を壁にぶつけて死ぬことだってできるのだ。私が目指しているのは、ちゃんと生き抜くことであって自殺することではない。私は死にたくなんかない。「自分の病気にしかるべき治療を受けさせてもらえない私は、生きるために二つのことを要求しているのだ」と答えるころには、私の声も落ち着きを取り戻した。「実際のところ、あなたが私に強いている事態こそ、命を危険にさらすものだ。だから、私に治療を受けさせず、私の身に何かあったら刑務所の責任問題だと言ったのだ」と。

約6年間、政治犯として独房で過ごしたマ・ティーダ氏
政治犯として独房で過ごした約6年間

「マ・ティーダ、あなたは自由ね」

すると医療担当が割って入って、私を取りなしたが、合点がいかなかったので私は人権の観点から反論した。そして、最終的に彼らは私の要求を全てのんでくれた。おかげで私のハンガーストライキは、1時間もたたずに終わった。ただ、この激しいやり取りの最後に、副看守長が私にこう言った。「言わせてもらうけれど、マ・ティーダ、あなたは自由ね」。この言葉は、私の体の中で反響して聞こえた。どういう意味かは分かったが、質問した。「どういうことだ。私はこの監獄の3.5メートル四方の小さな独房に、1日23時間15分も閉じ込められているのに、この私が自由だというのですか」と。そうすると副看守長は答えた。「何とでも好きなことを言えばいい。しかし、われわれは公務員なんでね。だから分かってもらいたい」。看守の声は、だんだんと弱しくなっていった。他の人々は、皆、物音を一つたてず、針が床に落ちる音すら聞こえそうな状態だった。
このことがあってから、同じ刑務所内の収容者たちは、ごくわずかながらも刑務所の外に出た私の自由の時間について知りたがった。しかし、私自身がぜひ語りたかったのは、もっと別の自由についてだった。「マ・ティーダ、自由なのはあなただ」。この副看守長の言葉を思い出しながら、私は自分が刑務所の中でも表現の自由を放棄していないことに気付いた。

引用:Ma Thida,“Prisoner of Conscience: My Steps through Insein”(Chiang Mai: Silkworm Books, 2016)pp.109~114、116、117。
注:著作は英語のため、当日の同時通訳をもとに仮訳を国際交流基金にて作成。

つまり私は、自分の自由を放棄しないという選択をしたのだと思います。看守たちは身体的には自由ですし法的にも自由ですが、思想や日々の活動という点では自由がなかったのです。しかし、刑務所に収容されている私は身体的、法律的な自由は失っていましたが、自分の考えや思ったことを表現する自由意志は持ち続けていました。そして、刑務所内でも自由であることを選択するということができたのです。従って、あえて言いますが、自由とは与えられた権利ではなく、自分の意思をもってする選択なのです。

4個の腐ったマンゴー

自由意志を持っていれば、自分が意図をしなかった出来事に対してもクリエイティブな対応をすることができるのです。もう一つ、刑務所内での出来事についてお話したいと思います。私は1998年の末に重篤な子宮内膜症と診断されました。直腸と膣の間の一番深いところまで蝕んでいました。それは1995年以来、子宮内膜症嚢胞の治療を受けられなかった結果でした。結核の薬で治療を受けていたことと、嚢胞の治療のためのホルモン療法を受けていたために、急性肝不全にかかり、ホルモン治療をやめなければなりませんでした。私の症状は悪くなる一方で、ひどい便秘状態だったこともあったため、中央病院から来た産婦人科医が生のフルーツの摂取を許可してくれました。刑務所で出される食事はひどいもので、家族が2週間に1回の差し入れをすることを許されていましたが、差し入れが許されるのは、加工食品か乾燥した食品だけでした。ですから新鮮なフルーツやその他の新鮮な食品が食べられるというのは、他の人から見れば特権でしたが、ひどい便秘であった私には必要なものでした。その経験を書いた回顧録の部分を読んでみます。

12月初めのある火曜日、いつもの差し入れの袋が届いた。けれど、リストに書いてあった4個のマンゴーは袋の中には入っていない。袋を持ってきてくれた係の収容者に袋を戻し、リストに載っているもの全てが入っているなら袋を受け取ると伝えてもらった。数分後、彼女が戻ってきて言った。「マンゴーは没収だそうよ。持ち込みは許されないということよ」と。私は彼女に、なぜなのか理由を聞いてきてくれるように頼んだ。マンゴーを含めてどんなフルーツも食べていいと、医者から許可が出ていたからだ。彼女は若い看守と共に戻ってきた。そして、「男性施設のほうで下痢がまん延し、マンゴーは軟便につながるので禁止された」と言う。私はこう言った。「だから、私はマンゴーを食べなくてはならないのよ、ひどい便秘なんですから。だからこそマンゴーを返してほしいのです。マンゴーを返してもらえないのなら、他の差し入れも受け取れません」と言った。看守はぷんぷんと怒って行ってしまった。彼女は間もなく戻ってくると、「マンゴーは全て禁止だ」と言った。私は「その命令には承服できない。もう一度戻って、誰がそんなことを決めたのか聞いてきてください。直接聞きたいですから」と頼んだ。

講演するマ・ティーダ氏

若い看守は立ち去ると、しばらくしてまた戻り、「看守長の命令よ。誰に聞こうと決定は変わらないそうよ」と言った。行ったり来たりしてくれた2人の女性にはすまないと思ったが、看守長と看守たちに教訓を与えなければならないと思った。「分かりました。マンゴーも差し入れのリストも全部母に戻してください。そして母に、確かに4個のマンゴーを受け取ったというメモにサインしてもらってきてください。そうすれば、他の差し入れは受け取ります」と伝えた。大きなため息をついて看守は去っていった。2人の女性たちはまた戻ってくると、看守が言った。「勘弁してよ、あんたのお母さんはもう帰ったわ。差し入れを渡すとすぐ帰っていったの。私にどうしろっていうの。あんたのお母さんを家まで追っかけていって、マンゴーを受け取ったってサインをもらってこいっていうの」と、うんざりという口調で言った。私も同じ口調で言い返した。「昔の私だったら、大きなかんしゃくを爆発させるところだけど。じゃあ、こうしてください。私のマンゴーをぶん取った看守に言ってください。次回の差し入れが来るまで、そのマンゴーはちゃんと取っておいて私の目の前で、うちの親に返してちょうだいって。腐っていようが、いまいが構わないわ。そう約束できるなら、他の差し入れを受け取るわってね。」2人は、急いでまた看守室へ戻っていった。

本当のところ、私は家族が刑務所内の愛する娘に差し入れられるものが10個のゆで卵だけだったとしたら、せっかく届けたものの中から、たとえ1個だって横取りするなんてことは許せないと思ったのだ。刑務所の看守たちはよく、許可されていないと言っては、自分たちが気に入ったものを平気でぶん取った。私は4個のマンゴーは大した金額のものでもないということを認識していたが、当局にも看守にも、何でも自分の物のように扱うことは許されないということを思い知らせたかったのだ。私がマンゴーを食べるかどうかの問題ではなかった。それからしばらくして責任者から、マンゴーは必ず私の母に返すので他の差し入れを受け取るようにとの伝言が届いた。

私は看守に言った。「分かりました。でも、他の看守たちにも伝えてちょうだい、許可されていないことだということをね。家族からの差し入れを取り上げることは、許されないっていうことをです。本当の所有者は看守であるわけがないのですから。分かった?」。看守は黙ってうなずいた。私の両親は、次の面会日に4個の腐ったマンゴーを渡されると、抱腹絶倒した。この出来事の後、私はトラブルメーカーとして、さらに1ランク上の部類に入れられた。でも仕方がなかった。ささいなことだといって、この種の腐敗を許したら、こんなことが繰り返されることになり汚職の共犯者に私は成り下がる。私はこうしたトラブルを起こし続けていたが、私自身の道徳心や人格、見識に影響は一つもなかった。

引用:Ma Thida,“Prisoner of Conscience: My Steps through InseinChiang Mai: Silkworm Books, 2016) pp.200~203
注:著作は英語のため、当日の同時通訳をもとに仮訳を国際交流基金にて作成。

両親と写真をとるマ・ティーダ氏
敬愛する両親とともに

この物語で言いたかったのは、刑務所の囚人であろうと、ささいな行為であろうと、腐敗したシステムを変えることは可能だということです。しかし、こうしたことは長くは続かないということも分かっています。人は、いろいろな理由から腐敗の蔓延に手を貸してしまいがちだからです。腐敗の原因は、大きく分けて四つあると思います。欲と怒りと恐れと無知です。その中でも一番危険なのは、無知です。なぜでしょうか。知識や識字能力の欠如、そして不見識は、どんな人であっても強い独立心を保つ上での障害となります。弱く依存心が強ければ、人の言うことばかりに頼るか自分の感情でばかりで動くようになるでしょう。そうなれば、欲と怒りの発露としての腐敗に手を染めてしまいます。感情のとりこになるのです。あるいは、恐怖心から人の命令や提案、要求に負けて汚職に走ることもあるでしょう。すなわち無知、知識の欠如、非識字と見識の欠如は、最も危険な形の汚職であり、汚職の原因なのです。

私の場合は、たくさんの書物を読み知識を得ることで、どんな状況下でもクリエイティブな対応ができるようになりました。刑務所では、私が収容されていた間いつも全く予想もしなかった反応に出るので、看守たちはいつも驚いていました。それまでの収容者たちは、ほとんどみんな典型的な反応しか見せていなかったからです。私に関してはいつものやり方が通用せず、対応に苦慮したようです。私は、書物を通じて、ウィパタナー瞑想*1 の効果的でシステマチックなやり方を習得していたのです。

*1 通常はVipassana Meditationヴィパッサナー瞑想と表記されますが、ミャンマー語ではウィパタナーと呼ばれるため、そのように表記を統一しました。

講演するマ・ティーダ氏

独房で行ったウィパタナー瞑想

内観瞑想は、終わりのない輪廻転生の地獄から解放してくれます。1995年の初めのころは、1日に20時間近いウィパタナー瞑想を実践しました。そのおかげで私は輪廻転生の苦悩からの解放に向かうべく、自分自身の内面を完全に理解することができたのです。この瞑想によって自分自身について知ることにより、私は、基本的な真理は三つしかないということを学びました。無常と、苦と、そして無我です。あらゆるものが無常ですから、苦しみしかありません。この二つの概念は私を善悪の縛りから解放してくれました。善悪いずれもが無常であり、苦なのです。ですから、いいことがあったからといって、それで大はしゃぎをする必要もありません。悪いことがあったからといって、ひどく落ち込む必要も全くなくなります。あらゆるものにとらわれず無執着でいられるなら、それこそが解放です。このおかげで私は刑務所にいても、どんな状況にも対処できたのです。

最後になりますが、書物と瞑想から得られた知識と洞察力のおかげで、私は身体的病気と精神的なトラウマに対処することができました。自由とは、私たちの中にあるものだと思います。自由は、外から与えられるものではありません。皆さんも終わりのない現世の課題に挑戦し対応するために、知識と瞑想を深めることで、ご自分の中に自らの自由を見い出されることを祈ります。ありがとうございました。


写真提供:マ・ティーダ
写真(講演会):朝岡英輔