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シャリファ・アマニ――ヤスミン・アフマドがいた時代:マレーシア映画のニューウェーブ

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ) 」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

『鳩 Pigeon』の撮影について

石坂健治(以下、石坂):まずは、『鳩 Pigeon』の撮影に参加することになった経緯を教えてください。

シャリファ・アマニ(以下、シャリファ):ある日、ウー・ミンジン監督から、私に会いたがっている日本の映画人がいると電話をもらい、すぐに快諾しました。私にはヤスミン・アフマド監督との縁で、日本とは特別なつながりがあります。ヤスミンが構想していた映画『ワスレナグサ』のロケハンでも日本を訪問しました。日本は大好きですし、とても魅力的です。文化、人々、働き方、考え方などの全てが、独創的だと感じる国の一つです。ですから、私にとっては実際に役を頂けるかどうかは重要ではありませんでした。より多くの日本人に会い、日本映画を見れば、きっと学ぶものがあるだろうと思ったのです。

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マレーシア映画の巨匠、ヤスミン・アフマド(1957-2009)

シャリファ:ミンジンはクアラルンプールのショッピングモールで、行定勲監督を紹介してくれました。行定監督が話す『鳩 Pigeon』のあらすじは本当に素敵でどこかノスタルジックで、とても気に入りました。しかも、私が演じる役名はオーキッドだというのです。私が本当に愛している名前です。ヤスミンは『細い目』や『グブラ』といったオーキッド・シリーズの中で、私をオーキッドとして完全に作り上げました。しかし、私の顔はオーキッドという名前とあまりに深く結びついているため、『鳩 Pigeon』でもオーキッドと名乗ったら観客は混乱してしまう。私は、観客を混乱させないために役名を変えましょうと行定監督に提案しました。監督からどんな名前がいいか聞かれ、私にとってただ一つ、心から恋しいと思い、とても美しいと感じる名前、ヤスミンと答えました。

石坂:海外の映画人とのコラボレーションに関心はありますか? 日本の映画人との仕事はいかがでしたか。

シャリファ:異なるバックグラウンドや文化を持つ人々から学ぶことは、私の夢の一つです。行定監督や撮影監督の今井孝博さんとの仕事は、本当に素晴らしいものでした。行定監督は「日本の撮影クルーはいつも緊張感に包まれている」と仰っていて、お二人ともマレーシアの陽気な雰囲気の撮影現場に最初は戸惑われたようですが、なじんでくださいました。女優である私にとって、腕のよい撮影監督とは、望むものを映し出せるかどうかです。カメラマンは俳優を撮りますが、全員が全員、感情まで捉えられるわけではありません。今井カメラマンはまさに感情まで映し出すことができるカメラマンでした。現場では愚痴をこぼすこともなく、汗をかきながらも、撮影を楽しんでいらっしゃいました。

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『鳩 Pigeon』撮影時の今井孝博カメラマンと行定勲監督
集合写真
『鳩 Pigeon』の撮影スタッフ(A:シャリファ・アマニ、B:行定勲監督、C:今井孝博、D:古賀俊輔、E:ウー・ミンジン、F:エドモンド・ヨウ)

ヤスミン・アフマドとの出逢い

石坂:実はヤスミン・アフマド監督の『タレンタイム』(2009)が今週(2017年3月25日)、日本で劇場公開されます。監督が亡くなって8年も経つのに公開されるなんて、奇跡のようです。日本人はヤスミン映画が本当に大好きなんですよ。アマニさんは17歳で『細い目』(2004)に出演しましたが、監督とはどのように出逢い、出演することになったのですか。

シャリファ:ヤスミンとの出逢い、これは「fate」でしょうね。「fate」は日本語で何といいますか。

エドモンド・ヨウ(以下、エドモンド):「運命」。

シャリファ:そう、「運命」だったのです。ある夜中の3時ごろ、やんちゃだった姉と私はハルタマスの飲食店街をブラブラしていました。そこでヤスミンに出会ったのです。家族ぐるみで付き合いのある、コメディアンで俳優のジット・ムラッドも一緒でした。ヤスミンはバジュ・クルン(baju kurung/マレーシアの民族衣裳)にスニーカーという装いで、とても風変りでした。バジュ・クルンは式典や公式の場で着るもので、普通はスニーカーには合わせません。だから印象的だったのです。ヤスミンはお喋りしたり歩いたりしている間も、私たち姉妹のことをずっと見ているので、少し緊張しましたが、普通にしていました。一週間後、ムラッドが私の母に「ヤスミンがナニ(シャリファ・アマニの愛称)に新作映画の脚本の読み合わせに来てもらいたいそうだ」と電話をしてきました。そして、その新作『細い目』の脚本の読み合わせに参加することになりました。

インタビューでのシャリファさんとエドモンド監督の写真

シャリファ:『細い目』の脚本を読んだ瞬間、「これは私の家族だわ!」と思いました。私の祖母は中華系で、インド系ムスリムと結婚しました。要するに、これは滑稽なマレーシアの混血児たる、愛すべき私の人生なのです。台本を読んでいるうちに、この映画に出なければと思い始めました。読み合わせには、私とよく似た、大きな目をした黒髪の小柄な少女がいました。ヤスミンが求めている容姿は明らかでした。ヤスミンに促されてその少女が台本を読み始めると、私はとっさに違うと思いました。彼女の英語はアメリカ英語の発音だったのです。私は午前3時にバジュ・クルンを身にまとうヤスミンを知っています。ヤスミンが自身の文化、伝統の中に深く身を置いていることを知っています。だから私はよりマレー人らしく、マレー訛りも沢山加えて話しました。私は心からこの役を自分のものにしたかったのです。

映画のスチル画像
ヤスミン・アフマド『細い目』(スチル)2004年

シャリファ:もう一人の少女が先に帰ることになり、スタッフから「あなたも送ってあげますよ」と言われたのですが、私は「近所のボーイフレンドに迎えに来てもらうので」と断りました。少女が帰った後、私はヤスミンと一対一になる時間を得ました。賢いでしょう(笑)? 私はヤスミンに質問しました。オーキッドのこと、家族のこと、この作品をどのように書いたのか、このような話を他にあまり見ないのはなぜなのか……。私たちは言葉を交わし、そこには絆があったと思います。迎えの車に乗るとき、ヤスミンは「さようなら」と声をかけてくれました。とっさに私は「いい映画にしたいなら、私を選んで」と言ったのです。すぐに自分でも、なんて恥ずかしいと思いましたが、何年か経つと、これがヤスミンと私の笑い草となりました。「いい映画にしたいなら、私を選んでと言ったのよ」と。このことがあったからヤスミンは私をオーキッド役に選んだそうです。私の勇気や度胸、欲求が、彼女の若いころを思い出させた。物語を伝えることに貪欲な人間。うまく説明できませんが、そういった点で彼女は私を認めてくれたのです。それにしても、うまくいかなかったらどうなっていたでしょう(笑)。

石坂:まさに「運命」だったのですね。

シャリファ:そうです。今、振り返ると、そこには多くの運命がありました。何かをしたわけではありません。私たちは道標を見つけ、それに引かれていっただけです。