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国際交流基金アジアセンターは、アジアの人々の間に共感や
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カーステン・タン――ゾウと人間の物語に至るまでの道のり

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

自分で切り開かなければならない、映画監督への道

土田環(以下、土田):いま開催中の東京国際映画祭のCROSSCUT ASIA「ネクスト!東南アジア」というセクションで上映されている映画『ポップ・アイ』のカーステン・タン監督に話をうかがいます。タン監督はこれまで短編映画を数本作られており、最近ではジョルジオ・アルマーニのCMなども手がけていますが、監督として、映画と広告を作るのは全く異なるものでしょうか?

カーステン・タン(以下、タン):私は若い頃からずっと映画が大好きで、16歳頃から映画監督への道を目指してきました。映画の道に入るためにまず短編作品を作り始め、初の長編作品である『ポップ・アイ』を監督するまで10年ほど作り続けたわけですが、映画制作にはお金がかかるし、作った後も収入になかなか繋がらない。現実的には映画制作だけで生活していくのは困難です。でも自分には映画を作る術しかないので、創作活動を続けながら生活を成り立たせるために、CM制作の道を選びました。
また、私の両親は私が映画の道に進むことに反対で、教師や会計士、エンジニアのような堅気な仕事をしてほしいと思っていましたが、私は自分が愛する映画を仕事にしたかったので、まず生計を立てることが重要でした。そうして何とか映画が作れることを証明しようとしたのです。

土田:映画の勉強はシンガポールで行ったのですか?

タン:当時、シンガポールの大学で映画を専門にした学部はなかったので、一番近いところで文学を選びましたが、結果的にはそれが良かったと思っています。というのも、人生を物語ることについていろいろ学ぶことができたからです。大学卒業後にニーアン・ポリテクニックの短期コースで映画を勉強しましたが、その時には既にストーリーを伝える準備ができていたように思います。

土田:現在はニューヨークを拠点に活動していますが、いつ頃移ったのですか?

タン:23歳からシンガポールで映画制作を始め、2本の短編映画を作った後、25歳のときに韓国で映画のレジデンスプログラムに参加しました。そこで故郷から離れてみて、自由に旅や創作ができることをとても幸せに感じました。実際、プログラムを終えた後もシンガポールには帰りたくないと思って、タイに移り住み、2年経ってもやっぱりまだ帰りたくないと思ったので、ニューヨーク大学で5年ほど映画を勉強しました。ニューヨークに移ってかれこれもう9年になります。

自身の映画制作について語るカーステン・タン
カーステン・タン監督(中央)

土田:シンガポール映画と言うと、例えばエリック・クー監督や『ポップ・アイ』のプロデューサーであるアンソニー・チェン監督(『イロイロ ぬくもりの記憶』)などは日本の映画ファンに知られていますが、ここにいる学生はほとんど知らないと思います。実際、同国では年間を通じてどのくらいの映画が制作されているのでしょうか?

タン:年間で10~15本ほどしか作られていないと思います。シンガポールは人口400万人のとても小さな国ですし、建国からまだ50年しか経っていないので、まだ自分たちの国の文化が何かを模索している段階だと思います。だからこそ私たちは他国の映画をよく見るわけで、日本やアメリカの映画やポップカルチャーも好きです。新しい国ゆえにいろんな形でスポンジのように他の文化を吸収して、その過程で自分たちの文化というものを探しているのです。

土田:『ポップ・アイ』もタイとシンガポールの合作でしたが、タン監督のように若い映像作家や映画を志す学生たちは海外に出ることは必然的な選択なのでしょうか?

タン:シンガポールの若手映画作家にとって何が一番怖いかと言うと、いろんな意味でロールモデルが自国にいないということです。実際、先ほどお話されたエリック・クー監督やジャック・ネオ監督(『僕、バカじゃない』)以外にいないような状況なので、どういう映画を作っていくのか、自分自身で道を切り開いていくしかありません。特に、私が海外に移住した頃は、自国に映画産業が殆どない状況でしたので、映画を学ぶには困難な環境でした。学校ではたしかにカメラの使い方など技術的なことは学べますが、物語をどういうふうに伝えるかといったソフト面での映画制作については学ぶことができなかったので、私はニューヨークで勉強する必要があると感じました。だから将来的に、私たちが海外で学んだことを自国に持ち帰って、次世代の映画作家たちに伝えていくことはできると思います。他方、いまはインターネットで色々と情報や知識を得られる時代なので、必ずしも海外に出なければいけないとは思いませんし、実際に自国で活動している人もいます。それでも、いまはまだ自分たちの映画の道をそれぞれ模索している時期にいるのだと思います。

カーステン・タン『ポップ・アイ』スチル(2017年)
カーステン・タン『ポップ・アイ』スチル(2017年)
(C) Giraffe Picture Pte Ltd, E&W Films, A Girl And A Gun 2017

土田:シンガポールは多国籍国家であり、タン監督のように多くの人が国境を越えて活動している時代だと思いますが、逆に監督はシンガポールのアイデンティティみたいなものの探求に関心があるのでしょうか? アートの分野では、ミン・ウォン氏のように、シンガポールの記憶を探すような映画や映画館のインスタレーションを作っている方もいますが、タン監督はいかがですか?

タン:広く考えると、アイデンティティというのは大きな問題ではないかもしれませんが、私たちのような映画作家やアーティストの多くが自分たちのアイデンティティについて確たる答えを持っていないということがあります。実際、食べ物やシングリッシュ以外で、シンガポールのアイデンティティにとって大事なものは何なのか、政府の要人に会った際に問うたことがあるのですが、誰もこれだという答えはありませんでした。その時に思ったのは、アイデンティティというのは求めて探すものなのではなく、有機的に出来ていくものなのだと。
私たちの国はとても若く小さいので、アイデンティティを考える時に不安というのが常に付きまといます。ただ、私が映画を作るうえで興味をひかれるのは人生を描くことであって、それがシンガポールでも他国でも同じです。登場人物たちをとにかく忠実に、現実的に、正直に描くことでその人たちのアイデンティティを本当に描けると思いますし、逆に、そこにないアイデンティティを無理に描くのは、かえって嘘になるのではないかと思います。往々にして、人は映画を通して自国の文化性を読み取ったり、映画で表そうとしますが、私の映画ではナショナリティについて考えないようにしています。