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キム・ソンヒ――韓国・光州アジア芸術劇場を立ち上げて

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

劇場のビジョンについて

山口真樹子(以下、山口):アジア芸術劇場を立ち上げ、その後の1年間のプログラムを組むミッションを引き受けてから、オープニングにこぎつけるまでのプロセスをぜひ伺いたいと思います。コンセプトや構想を練り、一定の方向性を打ち出していったことと思いますが、それはどのようなものでしたか。

キム・ソンヒ(以下、ソンヒ):アジア芸術劇場の主たるビジョンは、アジア同時代舞台芸術の様々な視点や多様なアーティスト、その作品が、自由に出入りするハブになることでした。アジアが互いに向き合うような場所を創造しようとしました。

段階を経て進めるには時間が足りなかったので、3つのミッションを同時に進めました。ひとつ目は、アジアとアジアの同時代舞台芸術を定義すること、ふたつ目は作品を制作し巡回させるシステムをアジア域内に作ること。さらには、地元の人々に同時代芸術を理解してもらうことも、ミッションのひとつでした。

まずアジアとは、アジアの同時代芸術とはなにかという問いについて、ひとつの方向性を打ち出す必要がありました。それは一個人ができるものではないと感じていました。そこで、アジアの思想家、批評家、アーティスト、歴史学者、社会科学者に集まってもらい、彼らのアジアに関する考えを共有しました。ドラマトゥルクのキム・ナンスが、このフォーラムの企画を手伝ってくれました。そのプロセスを通して私たちが理解したのは、地理的にもまた歴史的にもアジアを定義することはできない、むしろアジアは恒常的に、また有機的にその形が変化する実在である、ということでした。また、西洋の美術史的な定義の中で考えるのではなく、アジアのここ・今におけるアジア同時代舞台芸術について語るアーティストのクリティカルな声を全て理解しようとしました。こういった人々の思考やアイディアに触れ、学ぶプロセスが、私たちが実際にアーティストに会い、プログラムを作るうえで非常に有意義であったことが後になってよくわかりました。

インタビューに答えるソンヒさんの写真

ソンヒ:アジアの同時代舞台芸術のためのハブを立ち上げるために、アジア芸術劇場は自らアジアのアーティストを支援し、作品を制作し、それを外へ発信していくべきだと考えました。まずアジア内部に制作や巡回の仕組みを作ることが必要なわけですが、アジアにとどまることなくいずれ全世界に広げるべきだと思いましたので、すでに同様の制作やツアーのシステムを持ち、活用している人々と組んだわけです。既存のシステムにプラスαを作るために、大変多くの知識や助けをもらいました。

最後に、この劇場は首都ソウルではなく光州という地域に所在しているので、光州の観客とその理解を得なければならないと考えていました。成果を出すには3年という時間はあまりにも短く、とはいえ絶対に手抜きはできないことでした。ですので、できる限り光州市民に近い草の根的なプログラムを作ろうと努力しました。

山口:オープンまで3年、つまり3年間で全て同時進行しなければならなかったのですね。

ソンヒ:任期が2013年9月から2016年9月までの3年間で、オープンが2015年9月でした。その3年間で全ミッションを果たさなければなりませんでした。実際一般の劇場で、特にヨーロッパであればなおさらのことですが、ゼロから新たにフェスティバルを立ち上げるには2~3年くらいの時間は当然必要だと思います。さらにアジア芸術劇場の場合、オープニング・フェスティバルとシーズン・プログラムという、ふたつのプログラムとシステムを作らなければなりませんでした。
何もないところからシステムを作り上げるだけでも大変ですが、加えてプログラミングまでやらなければならなかったのです。しかもグランドオープンですから、さらに意味が重く、劇場の体制、すなわち劇場機構のテクニカルな部分やスタッフ構成も自分の仕事でした。シーズン・プログラムは別途複数のキュレーターに委託もしましたが、とにかく短い期間で全てのプログラミングをしなければなりませんでした。アジア芸術劇場は作品を制作する劇場ですので、すでに出来上がった作品を招へいするのに比べ、時間が2倍かかります。実際、時間がもっと短く感じられたくらいです。

山口:芸術がおかれている状況には多かれ少なかれ困難が伴うことと思いますが、韓国ではどうですか。

ソンヒ:アジアではどこにもこういった状況があると思いますが、韓国の場合それがもっと激しいのです。アジア文化殿堂のようなプロジェクトは、政治家の手によって生みだされますが、彼らは政治目的以外に、アジアの文化芸術やアーティスト支援などには何の興味も関わりもありません。公務員も同じです。家を建てて新築祝いをして自慢したら終わりといった感じです。中身に何の関心もありません。だいたいオープニングも家を自慢するためのもの。ですから、オープンまでは政府から多額の予算がおりますが、それが終わると当然のように予算がカットされます。アジア芸術劇場の前に、ナムジュン・パイク・アートセンターのオープニング・プログラムの1セクションを任されましたが、同様の状況でした。韓国ではグランドオープンのみに予算やチャンスが与えられます。今のナムジュン・パイク・アートセンターもアジア芸術劇場も、予算の長期的見通しが確保されていません。

インタビューの様子の写真

ビッグ・ヒストリー:遥かな目線で歴史を捉え直す

山口:フォーラムについてお尋ねします。企画の中心になった方がいましたね、確かソンヒさんのドラマトゥルクとおっしゃっていたと記憶しています。

ソンヒ:キム・ナンスさんですね。彼の話のなかで最も重要だったのは、ビッグ・ヒストリーでした。歴史をみつめるフレーム自体を完全に見直すべきだ、というのが彼の意見でした。20世紀という私たちの時代を顕微鏡でのぞくと、アジアは植民地化による受難の時代で、大変な被害をこうむり、それがポストコロニアリズムに繋がっていきます。ただそのフレームでは、植民地的歴史観から逃れられず悪循環に陥ってしまいます。その代案となる歴史観が必要だというのが彼の主張でした。歴史を遥か遠くから、例えばクジラが地球の主であった時代や、モンゴルのジンギス・カンが勢力を伸ばしていた時代、大英帝国時代などから眺めると、先ほどのアジア史のジレンマから逃れられるし、アジアの持つべき歴史観、未来に向かう歴史観へ進むことができるという趣旨でした。

彼の考え方で面白いと思った点のふたつ目は、20世紀以前に、アジアと中東・欧州・アフリカが概念的にひとつの大陸として考えられていたということです。近代の到来と大航海時代の植民地主義により、国境が引かれ大陸が分断されました。一見、プーチンの考え方に似ていますが、政治とは全く関係なく、文化のレベルの話です。この歴史の一部を蘇らせ、かつて文化が軽々と境界線を越えていた時代を想像してみるべきだという考えです。オープニング・フェスティバルでは、ツァイ・ミンリャンの中国から西域(=インド)に経典を求めて歩いていくという演劇作品『The Monk from Tang Dynasty』をオープニング作品に据えました。この作品こそが、アジア芸術劇場の方向性を象徴的に表していると私には思えたからです。

私たちのプログラミングに大きなインスピレーションを与えたことがもうひとつあります。私たちはえてして20世紀を中心に置いて考えますが、20世紀=モダン=近代は、科学、理性、合理性が支配した時代であり、西洋による支配期でもありました。その時代に科学的ではない、理性的ではない、合理的ではない暗黙知は追放されました。しかし私たちは21世紀に生きているのだから、21世紀にふさわしい考え方をとりいれるべきだという話でした。ナンスさんと私は、20世紀に追放された知識、例えば神話、アニミズム、シャーマニズムといったものをもとに、どのように未来を思い描けるかについて考えました。アジアはこういった追放された知識の宝庫であるはずで、その知識をどのように示し、未来へつなげることができるか。アピチャッポン・ウィーラセタクン(タイのアーティスト/映画作家)の作品はそれができると思いました。たとえば他人の夢に現れる夢、人間が動物に、動物が人間に変身し、UFOから信号を受信するなど。そういった要素がいつのまにか現実の政治や、SFの世界へと変容していくのです。

ナンスさんと私が見出した最後の点は、これまでアジアの歴史は他人によって書かれてきたということです。私たちは、アジアのアーティストがアジアの歴史を自分たちの声で書き直す場を提供することを重要視しました。シンガポールのホー・ツーニェンの演劇作品『Ten Thousand Tigers』、フィリピンのラーヤ・マーティンのパフォーマンス作品『How He Died is Controversial』、そしてマレーシアのマーク・テの『Baling』は、自分たち自身の視点で歴史を書き直すことに挑戦しています。

インタビューに答えるソンヒさんの写真

国際的文脈のなかのアジア

山口:運営の仕組みについてですが、アジア芸術劇場という名称を抱いていても、アジアの人の手によるプログラムといった狭い了見ではなく、国際的文脈のなかで活躍する専門家をアジアの外から招いたことが重要な判断だったと思います。舞台芸術をめぐるシステムは、国によって違いますが、実際どうだったのでしょう。

ソンヒ:「アジア芸術劇場」という名称でも、アジアだけを理解し、アジア人だけが関わることにする必要はないと最初から考えていました。国際的な文脈の中でアジアの座標が今どこにあり、本来どこにあるべきかを知るためには、内側と外側の両方の視点やシステムを全て知らなければならないと思いました。私自身はアジア人ですからアジアのシステムを知っています。それに加えて、国際的な文脈のなかでどのようにアジアの座標を見出すか、そのためには劇場をどう運営すべきかといった課題について、私とともに働いてくれたフリー・レイセン(フェスティバル・ディレクター)、マックス=フィリップ・アッシェンブレナー(ドラマトゥルク)、そして総務責任者のロジェ・クリストマンに大いに助けてもらいました。

ひとつ幸いだったのは、私が芸術監督に任命されるちょうど1年前に、フリー、マックス、ロジェ、私の4人が「アジア芸術劇場運営のマスタープラン」立案の委託を受けたことでした。劇場のビジョンと、その達成の方法論がすでにその中にまとめられていました。具体的な要素を多く含んでいたため、それをもとにすぐにミッションをおし進めることができました。フリーにはマスタープランニングやビジョン・セッティングの時点で、重要な役割を果たしてもらいました。

私がアジア芸術劇場のオフィスに着任してからは、フリーとロジェとは年に3~4回会うのがせいぜいで、私が彼らの意見を求め、議論し、彼らから影響を受け、そのインプットを解釈して、スタッフたちに仕事をふりました。

3名のうち唯一マックスは光州のオフィスで一緒に働きました。合流したのは2014年になってからです。国際的な仕事に関して彼に大変助けられました。また、劇場には国際的な経験の豊かなプロデューサーがいませんでしたので、劇場のプロデューサーたちがマックスを頼りにして多くを学びました。

マックスはそれまで欧州の自由な雰囲気で仕事をしてきたのに、光州にきて、韓国もしくはアジアのシステム、政治的な状況、ヒエラルキー、公務員の権威主義、無駄の多い非効率的な行政のプロセス、そして、まだ準備も整ってないのにオープンするアジア文化殿堂の正常でないシステムに対して、私以上に大きなカルチャーショックを受けたことと思います。さらに慣れない国にひとりで来て、生活しながら仕事をしたわけですから、もっと大変だっただろうと思います。彼には本当に感謝しています。

山口:ソンヒさんとは到底比べられませんが、私も自国のシステムのありように今更のように驚くことがあります。何かを実現させるために、内容以外のことに労力を費やすことが多く、ときにもどかしく思うこともあります。ソンヒさんは、そのような状況の下で、大変なエネルギーと強い信念を持ってオープニングのプログラムを組み、欧州も含めた世界のプレゼンターたちの度肝を抜きましたね。その点、心から尊敬しています。

ソンヒ:仕事自体はとても美しくて楽しかったのですが、行政サイドのことなど理解できないことが多くて、苦労の多い仕事で、二度とできそうにはありません。

インタビューの様子の写真
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