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キム・ソンヒ――韓国・光州アジア芸術劇場を立ち上げて

Interview / Asia Hundreds

近代を映し出す

山口:オープニング・フェスティバルで発表した作品のなかでも『Baling』は、国際舞台芸術ミーティングin横浜(TPAM)と国際共同製作(コ・プロデュース)した作品で、オープニングに参加した人々の間で高く評価された結果、世界のさまざまな都市や国に招かれ、まったく異なる空間や観客に受容されていきましたね。それは光州アジア芸術劇場の大変な功績だと思います。2016年、ドイツ・ブラウンシュヴァイクのフェスティバルTHEATERFORMENでアジア特集が組まれました。ホー・ツーニェンの『Ten Thousand Tigers』も、『Baling』も、さらにはタイや韓国のアーティストによる作品が上演されました。アジアにはこれほど多様で、しかも同時代のもので、今ここにいる自分たちにも語りかけてくる作品があることを、はっきりとドイツの観客に提示しました。アジア芸術劇場の取り組みは、結果的に世界の舞台芸術シーンにおいて、大変な成果、功績を残したと思います。

ところで、オープニング・プログラムの中で驚愕したのが、革命歌劇でした。現代風のオペラかなと気楽に出向いたら、硬派なプロパガンダオペラでした。あの作品を選んだ理由はなんだったのでしょう。

インタビューの様子の写真

ソンヒ:中国の同時代アーティストを見つけるために非常に力を尽くしました。何度も中国を訪れて探しましたが、私たちが思い描いているようなアーティストがなかなか見つかりませんでした。革命歌劇には何かがあるとフリーが一度口にしてから、私たちふたりの間では長いこと話題にはなっていました。ただそれを、中国ではないところで紹介する文脈をずっと見いだせずにいました。とにかくチケットを予約してみに行ったところ、まさに真っ赤なプロパガンダでした。観劇後、自分に対してまずあきれました。アジア芸術劇場の芸術監督だと言いながら、アジアの近代芸術について、そしてその形式について、ここまで無知でいいのかと自問自答しました。自分ですらこれをエキゾチックにみていること自体に愕然としたのです。そのこと自体を問題視したかった。

従来、アジア各国は欧州へ目を向けており、互いに向き合うことをしてきませんでした。そろそろ向きあうときだと私は考えました。アジアの近代を共有することもそのための一歩です。近代の理解なしに、同時代を論ずることはできません。アジア各国間において近代に関する互いの省察はこれまであまりなされてきませんでした。近代の理解をなおざりにしたまま同時代について議論することは、自分に対して不誠実だと感じました。だからこそ、革命歌劇、舞踏、インドの現代舞踊を、目には見えないひとつの脈絡としてプログラムに入れたのです。

中国を再び訪れ数回リサーチを行い、批評家や歴史家に会って話しましたが、彼らは検閲などを気にして、とても慎重にしか話を聞かせてくれませんでした。そんななか、チャオ・リャンという映画監督に会ったところ、たいへん興味深い意見を聞くことができました。彼の眼には、中国はプロレタリア文化大革命という大きな変化を経験し、本来必要な自省をすることなく、すぐに資本主義へと移行し、それは究極の商業主義とネオリベラリズムでした。今日の状態へと流されてきた中国が、歴史を振り返らないことに怖れを抱き、アーティストとしてのある種の責任を感じるという考えから、文化大革命の産物である革命歌劇について語るのでした。この批判的な視線をもって、彼は文化大革命だけでなく現在の中国を映し出す鏡としての作品を作りました(『East Wind and West Wind』)。
実際には大きい劇場をふたつに分けて、革命歌劇を一方で、もう片方でチャオ・リャンの作品を展示しました。

こういった組み合わせについて自分の物差しを当てて批判したり、正しいか正しくないかを見せるようなことはしたくなかった。アーティストが自分たちの文化大革命時代、革命歌劇についてどんな観方を示すのかを見て、観客には自由に革命歌劇と今日の中国を繋いで欲しかったのです。

インタビューに答えるソンヒさんの写真

東南アジアのリサーチ

山口:準備の段階でかなり広範囲に出向き、リサーチをなさったと思いますが、どのような旅をしたのか簡単でいいので聞かせてください。

ソンヒ:アジア芸術劇場の仕事に就く前も、日本とはかなり交流を行っていました。中国へは何度も行きましたが、おそらく私のリサーチの方向が間違っていたのでしょう、適当な作品を見つけられませんでした。しかしながら中国の文化シーンには深いポテンシャルがあると思います。その一方、東南アジアには多数の面白いアーティストに出会いました。チャンスがあればまた一緒に仕事したいと思うほどです。東南アジアに行くたびに、プログラミングのためのインスピレーションを大いに受けましたし、多くを学びました。

山口:東南アジアにも振り返らなければならない近代化の問題がありますね。

ソンヒ:ある種の歴史は韓国もしくは東アジアにしかない、と考えていましたが、実は同じことがアジアの近代史全般に同時に起こっていたのです。私が東南アジアについて見出したもっとも重要なことのひとつが、アジアの中の異なる地域間に実は歴史の共通項があることを知ったことです。私たちの多くは互いの歴史から切り離されています。それをアジアの中で共有することがとても重要であることに気がついたのです。そのようにアジアを総合的に考えてこそ、アジアの未来に関する私の考え方も強化されると感じました。

インタビューの様子の写真

地元の理解と観客の育成

山口:光州の地元の人たちの理解を得るために、具体的にどんな方法でどのような活動をしたのか教えてください。

ソンヒ:光州の地元の状況に取り組むのは大変でした。アジア芸術劇場をめぐる事情がとても複雑なのは、あまりにも多くの利害関係が絡み合っているからです。国際的には「アジア」という名前がついただけで期待を集め、地域の人たちにとっては政治家から寄せられた贈り物だから自分たちのもので、自分こそがその恩恵を受けるべきという意識がありました。政府は政府なりの政治的アジェンダがありましたし。その何かひとつを選ぶと、他が怒り出すという状況の繰り返しでした。それでも、地域の理解や合意を引き出さなければならないと考えて、さまざまな手を打ちました。

地域のアートシーンの方が、ヒエラルキーが強いのです。地域においてすでに確立されている勢力は、自分たちが支援を受けるべきだと考えていたかもしれませんが、彼らが地域のアートシーンを代表するわけでもないし、逆に彼らのせいで若手アーティストたちは怯んでいることもありました。私たちは、彼らは地域の文化財団などの支援もほぼ全て受けていますので、さらに私たちが支援する必要はないと考え、陰にいた若手に作品を作る機会を提供しました。同時代芸術を若い世代に紹介するために、さまざまなプログラムを作りました。滞在制作していたアーティストたちによるワークショップも実施しました。最終的にはシーズン・プログラムの中に、彼らの作品を制作し上演する枠も作りました。力を持つ人々は全く喜ばず、騒ぎもおきましたが、今考えても正しいディレクションだったと考えています。

山口:すばらしいですね。妥協すれば楽になることがわかっていても、妥協しないで自分の考えを通すことは本当に大変なことと思います。光州市内の複数の芸術大学に出かけ、同時代舞台芸術を紹介する活動をしたと聞きました。

ソンヒ:光州ではアーティストだけではなく観客のためにも、同時代芸術への関心を高める必要がありました。光州はもともと伝統芸能が盛んな町で、同時代芸術に対する反感が強いのです。あまりよく知らないのに、嫌います。最初から嫌っている人々の考えを3年で変えることはできないと思いました。ですので、ゼロから何かを作り出すのであれば、より可能性の高いところに行こうと思い、より若い世代をねらいました。各地のアート・コミュニティはもちろんのことアートスクール、社会科学やアジア研究の学生にアプローチして、同時代芸術や劇場のプログラムを紹介しました。光州の観客の掘り起しを担当する光州出身のスタッフも雇い、地域の観客拡大戦略や3年間の段階別実行計画も立てました。近しさを感じてもらった結果、グループで劇場に来場する人々も増え、とても力になりました。

インタビューの様子の写真

生まれたばかりのベビーを共に育てていく―アジアにおけるプロデューサーの役割

山口:現在、新しい芸術監督が就任しているのですか。

ソンヒ:芸術監督は、公務員組織のような「本部長」という名前のポジションに取り替えられました。聞いた話ですと、前の政府は芸術の専門家に全権を与えれば物事はうまく進む、公務員が力を持って監視、検閲、コントロールしようとすると失敗することを心得ていて、せめてオープニングはきっちりと実現されるよう、芸術監督を置いて大きい権限を与えていたそうです。そのおかげで2年間うまく準備できたのです。すべての結果はその2年の間に作られたと言っても過言ではありません。その2年が過ぎ、 芸術監督制を取りやめ公務員組織のように再編したのです。

山口:確か以前TPAM2016で、「今、ベビーが生まれました。これからみなでどう育てるかが課題です」とおっしゃっていました。今はどうお考えですか。

ソンヒ:誰もが知っているように、アジア的状況、つまり家を建てても、オープンした途端に行政に持って行かれてしまう、その中で、あるビジョンに到達するのは無理であることがはっきりしています。アジアのアーティストを共にどう支援していくか、オープンマインドのもとにともに考えていく必要があります。政治家たちを説得して考え方を変えさせるのも大事ですが、すぐには実現しませんので、私たちは代案を提案すべきです。光州のアジア文化殿堂のビジョンが長い時間をかけて実現するのであればいいですが、もう終わってしまいました。日本も東京オリンピック・パラリンピックのおかげで多くの機会が与えられていますが、それも長続きはしないと思います。

インタビューに答えるソンヒさんの写真

アジア芸術劇場の成果をあげるとすると、こういうことができるのではないかと提案し、種をまいたことでしょう。私たちがお互いに向き合えるようになり、私たちでこういう作品を作り、そして世界で共有することもできるという可能性を、アジアの関係者の間で共有できるようにしたのが、アジア芸術劇場の役割だったと思います。その種から芽が出てアジアの中で花を咲かせているように思います。私たちがアジア芸術劇場で始めたことが、日本、台湾、シンガポールなどアジアのさまざまな劇場の手で育ち、深められ、その旅がさらに続き、アジアの同時代芸術のための豊かな土壌が熟すことを願っています。

特に、TPAM2017とTPAM2016では、アジア芸術劇場がコミッションしたキュレーターたちが、プロデューサーとしてキャリアを積んだ結果、いくつかのプロジェクトに招かれ関わっていましたし、また中国の若い世代のアーティストが多数参加していました。以前とは明らかに異なる雰囲気を目の当たりにして、とてもありがたく思いました。

今後の計画について

山口:今後フリーランスのプロデューサーとして活動すると伺っています。今後の計画についてお聞かせください。

ソンヒ:フェスティバル・ボムのディレクター時代に、こういったビジョンは想像すらできませんでした。馬鹿馬鹿しい、政治的なプロジェクトでしたが、大きなビジョンを設定し、関わりながら夢を見たこと自体、そして実際にその中で関わったこと自体は、とても運が良かったと思います。でも、ご存知のように、こういう大規模なプロジェクトのデメリットは長続きできないということです。今は、そういう巨大なクジラのようなシステムでないとビジョンが実現できないのかどうか、疑問を持っています。現実においてのビジョンの実現は不可能なのでしょうか。それはサイズや予算規模の問題ではなく、ビジョンを持ち続けられる現実的な仕組みの問題であり、その仕組みを自分で発明したいと思っています。今まで自分もコプロダクション(国際共同製作)やコミッショニング(新作委嘱)について多く話してきましたが、3年間の間にアジアに相変わらずみられる限界や、可能性、不可能性についても学びましたし、クジラのような大組織は短命に終わることも学びました。その長所や短所を踏まえつつ、スケールダウンはするものの、ビジョンを長期的に持ち続けることのできる仕組み、個人レベルでできる仕組みを作らなければならないと考えています。

山口:ありがとうございました。

キム・ソンヒさんと山口真樹子氏の写真

【2017年2月19日、横浜市開港記念会館にて】

参考情報

マーク・テ作『Baling』(TPAM 2016 Webページ)

「欧州のアートシーンを牽引するフリー・レイセンが見る フェスティバルのアイデンティティとは?」、『Performing Arts Network Japan』プレゼンターインタビュー(2009年4月27日)

アピチャッポン・ウィーラセタクン作『フィーバー・ルーム』(TPAM 2017 Webページ)

フェスティバルTHEATERFORMEN 公式Webサイト(2016年ページ)


インタビュアー:山口真樹子(やまぐち・まきこ)

東京ドイツ文化センターにて音楽・演劇・ダンス・写真等における日独文化交流に従事した後、ドイツ・ケルン日本文化会館(国際交流基金)にて舞台芸術交流、日本文化紹介、情報交流他の企画を手がける。2011年春より東京都歴史文化財団東京文化発信プロジェクト室で企画担当ディレクターとしてネットワーキング事業等を担当。2015年より国際交流基金アジアセンターにて、東南アジアと日本の間の同時代舞台芸術の交流・協働に携わっている。

通訳(韓-日):コ・ジュヨン(Jooyoung Koh)
写真:鈴木 穣蔵