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モーリー・スリヤ――女性映画監督として、インドネシア映画界で働く選択

Presentation / 第29回東京国際映画祭

映画を通して描くインドネシア社会、階級の断絶

土田:『フィクション。』のテーマの一つは、少女から女性への成長だと思います。『愛を語るときに、語らないこと』でも、恋愛を通して少女が成長します。それを、スリヤ監督は女性の初潮や処女の喪失を通して描いています。それから『フィクション。』でとても興味深いのは、家父長制、父親と娘の関係、インドネシア社会との関係です。同作では、多様な人たちが住む団地が舞台となっていますが、例えば家族と同居している人もいれば、同性愛のカップルが暮らす階、売春婦が暮らす階、学生が住む階というふうにフロア毎に住む人々が異なります。監督によれば、実際にこのような団地がジャカルタにはあるそうですが、映画では社会の縮図のように色々なインドネシアの人たちを描いています。

また、『愛を語るときに、語らないこと』では、目の不自由な若者と少しだけ目の見える少女、それから目が不自由な少女と耳が不自由な少年の二組の恋愛関係を描いています。両作品を観ると、インドネシア社会のマイノリティの存在について、高らかに主張するわけではないですが、描きたいという監督の意思を感じます。どのような動機でこのようなテーマを選んでいるのでしょうか?

映画のスチル画像

『フィクション。』(c)Cinesurya

モーリー:両作品とも、誰かを好きになる女性というのをまず描きたいと思いました。インドネシアでは、一般的に女性が好きな男性を追いかけるというのは望ましくなく、女性は男性がアプローチするのを待つのが望ましいとされています。『フィクション。』では、極端な形で、それを描きました。また、土田さんが言っていた団地ですが、実際にそのような団地を見つけて舞台にしようと思いました。私はドキュメンタリー作家ではないですが、リアリティを劇映画に取り込んでいくことを心がけています。

『愛を語るときに、語らないこと』は実際の盲学校で撮影しましたが、その中で、高校生がどんな恋に落ちるのだろうと、想像しました。私自身は目が見えて耳も聞こえるので、例えば、男性からの甘い言葉にほだされたり、逆に男性なら見た目の美しい女性に惹かれたり、目や耳から入ってくるもので判断して、恋に落ちますよね。では、目が不自由であったり、耳が不自由な場合、どういう恋愛になるのだろうというのが本作の動機となりました。実際にそういったリアリティの中でディテールを描き、取材もたくさんして浮かび上がってくるものに焦点を当てていきます。

自分では特に意識していませんが、やはり自分が女性ということもあって、もしかしたら自分の作品の登場人物は自分の人生、自分の考えや気持ちを重ね合わせたものになっているのかなと思います。作品で描いた処女の喪失や初潮というものは、私の体験とも重なるわけで、一つの女性の人生でもあるわけです。

土田:『フィクション。』で描かれる主人公の女性は、一般的には狂気に取り憑かれているように見えるのですが、裕福で何でも手に入るけれども、母親を不幸にして亡くし、トラウマに苦しんでいるという少女の設定、その彼女が怖く見える行為は、やはり何か社会にぶつけているものがないと思い浮かばないと思います。脚本は、ジョコ・アンワル氏とスリヤ監督の共同脚本なので、お一人のアイディアではないと思いますが。

モーリー:『フィクション。』で念頭にあったのは、『不思議の国のアリス』の話でした。大金持ちの主人公アリシャはお屋敷に住んでいますが、それだけでもインドネシアの社会を象徴しています。その彼女が家を飛び出し、自分よりも貧しい人々が住んでいる団地という異世界に自ら迷い込んでいきます。その中で、彼女がどのように団地に暮らす人々を見ていくかというと、頭の中で一つの世界を作り上げるのです。実際にある、大変で貧しい暮らしというのは全く見ていません。

また、この団地を建てるために、元々あった家々が何かの陰謀で燃やし尽くされているのですが、元の住居人である一人の男は団地の一部屋をあてがわれるものの、ずっと部屋に入らず廊下で生活しています。部屋に入ってしまったら負けだということで、彼は大きな力に対して抵抗しているわけですが、アリシャは彼を見て面白いと思うのです。結局、彼がなぜ抵抗しているのかとか、その文脈や現実を理解できないのか、しないのか、彼女が面白いと思ってしまう背景には、社会や階級の断絶があるわけです。その目線自体が完全な差別なのではないかと思います。この映画の中には複数のレイヤーがあって、外側にはトラウマを抱えた女性が狂気に走る、ホラーの一面があると同時に、もう1つのレイヤーでは、そういった社会や階級の違いを描いていて、私はそこにとても興味を持っています。

講演中のモーリー監督の写真

(以下、学生との質疑応答)

学生1:本日はとても興味深いお話をありがとうございました。インドネシアでは厳しい言論や表現の制限があるということでしたが、監督の作品がインドネシアで公開された場合、映画の評価がどのようなものなのかお聞かせください。

モーリー:インドネシアの映画は、検閲を経なければ上映できませんが、『フィクション。』は引っかかりませんでした。私が映画を通じて押し出しているメッセージは、実は賛否両論ある、物議を醸すようなものが多いと思いますが、かなりオブラートに包んで言いたいことがちゃんと伝わるように作っています。その表現方法は、日本映画を観て学びました。一方、長編二作目は検閲に引っかかってしまいました。問題は男女の性交シーンで、ヌードではなかったのですが、結果的に8秒間削除しなければなりませんでした。

学生2:日本映画をよく鑑賞するということですが、参考にしている監督や作品、好きな俳優などいたら教えてください。

モーリー:私は是枝裕和監督の映画が大好きで、中でも『誰も知らない』(2004)は一番のお気に入りです。映画学校ではもちろん、黒澤明や小津安二郎も観ました。また、園子温監督の『愛のむきだし』(2009)やアッバス・キアロスタミ監督の『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)、同作に出演している高梨臨さんが好きです。アニメも大好きで、『エヴァンゲリオン』の大ファンです。

土田:今日皆さんにご紹介した2作品は、ヨーロッパや釜山を含め、海外の映画祭で非常に注目された作品です。日本に比べれば、映画産業の伝統というのは小さいかもしれませんが、たくさんの歴史を持つインドネシアの映画産業で、若い制作者たちが今、海外の映画祭で非常に注目されています。スリヤ監督の新作がぜひまた日本で上映されることを楽しみにしています。

モーリー:ありがとうございました。今日の話で、皆さん何かきっかけを掴んでもらえたら嬉しいです。


編集・写真:掛谷泉(国際交流基金アジアセンター)