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ダンス・プログラムのキュレトリアルな実践と研究――ヘリー・ミナルティインタビュー

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

ダンスとの出会い

――2007年の国際演劇協会(ITI:International Theater Institute)主催のアジアダンス会議(the Asian Dance Conference)でヘリーさんに初めてお目にかかりました。すでに、キュレーターや研究者として活動なさっていて、さらに博士課程に進む準備をしていました。現在は、ジャカルタ・アーツカウンシル(DKJ)のプログラム部門長という要職の傍ら、インドネシア国内外で、特に舞踊分野で幅広い活躍をなさっています。どのような経緯で舞踊に関心を持たれたのですか?

ヘリー・ミナルティ(以下、ヘリー):ダンスの世界に関わることになったのは、偶然のことでした。私が舞踊を見始めたのは、1990年代です。広告会社でコピーライターとして働いていて、最初は演劇に興味を持っていました。でも、少しずつ舞踊に関心が移り、観続けるようになりました。ほとんどが、ジャカルタで行われるインドネシアの舞踊です。インドネシアでは、1990年初めから半ばにかけて経済が活況を呈していました。若い振付家の出現に明らかなように、ジャカルタのダンスシーンにとって良い時期だったと思います。
たとえば、振付家のボイ・サクティ(Boi Sakti)は、すでに学生として舞踊を始めていましたし、他にも多くの名前を挙げることができます。インドネシアにはその当時はまだ助成のシステムはありませんでしたが、1998年にドイツ文化センター・ジャカルタがインドネシアの若い振付家たちのためにプロデュースを始めていました。
1990年代の末に、会社勤めの傍らジャカルタポスト紙に寄稿することになり、振付家や演出家と交流を持つようになりました。 東南アジアは、インドネシアも含めて1997年半ばから金融危機に陥ります。スハルト大統領が退陣したのが1998年5月です。こうして「改革」時代が始まりました。その頃のインドネシアの社会状況は緊迫していて、多くの人が失職しました。私の会社でも次々と解雇されました。憂鬱な日々が続いていた最中に、突然、ドイツ文化センター・ジャカルタのディレクター、ルドルフ・バルト(Dr. Rudolf Barth)から、香港で開催されるアジアの舞踊と演劇批評のためのワークショップ週間に招待されました。自分のことを批評家だとは思っていなかったので気がすすみませんでしたが、参加することにしました。それが、私にとって舞台芸術の文脈における複雑な概念としての「アジア」との、初めての接触でした。
ワークショップのプログラムは非常に内容の濃いもので、4~5日にわたってディスカッションと舞踊の観劇に明け暮れました。私はフリーランスという立場でしたが、ほとんどは、さまざまなアジアの国々から参加した専門的な批評家たちでした。この出会いに刺激を受け、帰国してからいろいろ考えました。1年後、会社を辞めて、ジャーナリズムの修士号を取得するためにロンドンに留学。フリーランスのアーツ・ジャーナリストになるために、アーツ・ジャーナリズムに焦点を絞ることにしました。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヘリー・ミナルティ氏の写真1
写真:鈴木孝正

――ジャーナリストの勉強をして、帰国してからはどうなさったのですか?

ヘリー:帰国後に何をするのかは決めていなかったのですが、ベルリンを拠点に活躍する振付家サシャ・ヴァルツ(Sasha Waltz)のジャカルタ公演の制作の依頼を受けました。『宇宙飛行士通り(Allee der Kosmonauten)』という作品です。私は、その2年前の1998年に、香港のワークショップで観ていました。大規模なプロダクションでした。その当時、今でもそうなのですが、ジャカルタには、制作の専門家がいなかったので、ほとんど経験がなかったのですが、直感的に私は引き受けることにしました。これが、ダンスの制作を始めたきっかけです。ドイツ文化センターのプログラム部門長と密接な関係のもと仕事をしました。それは学習でした。それ以降、ドイツ文化センターは、この時期、成長するための多くの機会を与えてくださいました。特に、1998年から2002年の文化部長、デトレフ・ゲーリッケ=シェーンハーゲン(Detlef Gericke-Schönhagen)にお世話になりました。
2001年に、ブリティッシュ・カウンシル・インドネシアで、舞台芸術のアートイベントのプログラムを担当するアート部門長として仕事を始めました。ある意味キュレーターのような仕事でした。また、若手アーティストの作品を紹介するギャラリー付きの新しくて広い図書館を引き継ぎました。そこでの仕事は楽しかったのですが、2年だけ勤務して、その後は、中国に行くことを決心しました。
香港に旅した時から中国に関心をもっていたのだと思います。それと、自分は舞踊の制作の経験がいくらかあって、イベントで海外に行ってディスカッションやディベートに参加するときに、舞踊に関する知識が不十分であることを認識していたからです。もっと舞踊のことを知りたかった。知識を深める方法として、博士号の取得を考え始めました。それで、アジアン・スカラシップ財団(ASF)の奨学金を受け、中国に行くことにしたのです。ジャーナリストとしての技術で、中国のモダン/コンテンポラリー・ダンスについて研究することにしたのです。この9カ月の中国滞在を、舞踊研究の博士号修得のための順備段階として計画しました。それはまた、「モダン」とは何で、何が「コンテンポラリー」を構成しているのかという、私の長年の研究課題でもありました。

ジャカルタ・アーツカウンシルの取り組み

――あなたが、香港でアジア圏のさまざまな舞踊や言説に出会い、ロンドンに留学し、その後海外の文化機関で仕事をした後、研究対象に中国のコンテンポラリー・ダンスを選んだことは非常に興味深いです。次に、あなたの現在の仕事について聞かせてください。ジャカルタ・アーツカウンシルのプログラム部門長として、具体的にどのような仕事をなさっているのですか?

ヘリー:2年半のロンドンと半年のニューヨークでの滞在の後、2012年1月にジャカルタに戻り、それからの1年間は、母親の面倒と家族の問題に関わりつつ学術論文を書くことに集中しました。その間は、他のことにはあまり関わりませんでした。それから、その年の7月にドイツ文化センターでディッタ・ミランダ・ヤジフィ(Ditta Miranda Jasjfi)を紹介する小さなプロジェクトを実施しました。ディッタはピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団の唯一のインドネシア人ダンサーでした。1997年に、彼女にインタビューをしたことがありましたが、そのとき、ヨーロッパのダンスの文脈のなかで、プロフェッショナルのダンサーとして仕事をすることがいかに大変だったのかを知りました。インドネシアでは、彼女の名前は知っていても彼女のしていることは知られていませんでしたし、プロフェッショナルなダンサーという考え方が、一般的ではありませんでした。私は、国際的なカンパニーでプロフェッショナルなダンサーとして仕事をしてきた彼女の数年の経験が、どんなに厳しいことだったかを分かち合いたかった。彼女をひとつのお手本として位置づけてみたかったのです。ちょうど、ヴィム・ヴェンダース監督(Wim Wenders)の『Pina/ピナ・バウシュ踊り続ける命』が封切りされたところでした。彼女も登場していました。ポスターにも写っていました。それで、紹介するのなら今だと思いました。彼女は恥ずかしがり屋で、思慮深い人でしたから、説き伏せるのには数年かかりましたが、最終的には承諾してくれて、私たち―私、ドイツ文化センターと、彼女の最初のダンス教師だったファリダ・ウトヨ(Farida Oetoyo)でイベントを実施しました。
そのうちに、ジャカルタ・アカデミーから私にインタビューしたいという電話がありました。ジャカルタ・アーツカウンシル(DKJ)のメンバーへの就任要請でした。ジャカルタ・アーツカウンシルは、年長の知識人たちで構成されたアカデミーの選考によって3年ごとにメンバーが決まります。再任ありで2期務めることができます。舞踊、演劇、音楽、映画、文学、視覚芸術の6分野に分かれていて、ひとつの分野に4~5人、計25人のメンバーがいます。執行役員5人がそこから選出され、さらに選挙によってその内の一人が部門長を務め、3年計画の進行を監督します。
アーツカウンシルは、ジャカルタ・アートセンターと同時期の1968年11月に設立されました。センターの企画と知事の文化芸術のコンサルタント業務が最初の設立の意図でした。設立当時の知事は先見の明があったのですが、彼以降の知事は、たいていは芸術にあまり興味がなく、彼ほどには活動的ではありませんでした。2003年に変化が始まり、予算が付与され活動が展開されていきます。アートセンターの刷新のためには新しい基盤が必要です。私たちは特別な任務のために選ばれたと考え、設立当初の声明に立ち戻って考えることにしました。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヘリー・ミナルティ氏の写真2
写真:鈴木孝正

――1968年の声明に、現在からどのように応答することにしたのでしょうか?

ヘリー:1968年の声明は、「ジャカルタ・アーツカウンシルはすべての芸術創作のための場所を提供すること」とありました。それは、美学的な作品だけではなく娯楽作品も含まれますが、良質な作品であることが条件です。それで私たちは、3年という短い任期の間に、ジャカルタの文化芸術活動を再び読み解き、限られた予算をどう効果的に使ったらよいのかを探ることにしたのです。
まず手がけたことは、私たちのセクターの主要人物とコミュニティを明らかにすることでした。たとえば、主な利害関係者たちです。彼らは何をしているのか。そして「必要とされているけれども誰も実行していないこと」を調査しました。それから、「もっとも必要とされているのにまだ実施されていないこと」という指標でプログラムを形成しました。ですので、私たちのプログラムはワークショップ、リサーチからイベントを中心にしたものまで幅広く取り扱います。大型イベントのうち、ジャカルタ演劇フェスティバルの監督も続けています。このフェスティバルは、1974年から定期的に開催されています。他には1970年代後半に絵画ビエンナーレとして開始され、前任者から引き継いだジャカルタ・ビエンナーレがあります。これは大型で国際的になったため、組織が共同設立され独立して運営することにしました。
多くのことを手がけていますが、少しずつ、当初の目的である、アートセンターの企画と知事の文化芸術に関するコンサルタントという機能に戻りたいと考えています。でも、それはまだ交渉の段階です。

――大きな変革ですね。

ヘリー:大きな事業のように聞こえますが、個人の力によるところが大きいのです。問題は山積しています。一般的にアーツ・コミュニティは私たちが抜本的な変革を起こすことを望んでいますが、たやすいものではありません。基盤の変化というのは、労力をかけてとてもゆっくりと進むものなのです。 多くの議論を含めたディスカッションができる余地があることが重要です。現在の知事は芸術系施設の見直しを図っています。市民にとって、ジャカルタにとって良いモデルとなるものをどうつくるか。文化セクションと市の観光局の関係の問題もあります。私たちは努力していますが、官僚たちと仕事をするのは簡単ではありません。これは私たちにとって学習過程なのです。たとえば昨年の大統領選挙が原因で、私たちへの資金提供が尋常ではないほど遅れました。どうしてこんなことが起こるのか。私たちは政治のプロセスがどうなっているのか理解しなくてはなりません。政治家たちは私たちがしていることを何も知りません。そこで同僚たちは、そのことを避けるのではなくロビー活動を開始しました。私たちは、どういう見通しで都市が運営されているのかを学び、それをいかして各々の仕事をしていきます。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヘリー・ミナルティ氏と久野敦子氏の写真1
写真:鈴木孝正