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国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
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女性だけが出演する演劇に、フェミニストの美術家が見出したものとは

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

大学と英国留学を経て、ヨソン・グックに出会うまで

―サイレンさんの作品『(Off)Stage/Masterclass』をTPAM 2014で観て、ヨソン・グック(女性国劇)の存在を知りました。前半に出演しているチョ・ヨンスクさんの、舞台に立った時の誇らしげな、生き生きとした様子がとても印象的でした。あの作品には、ヨソン・グックという演劇の様式、日本と韓国を含むアジアの近現代史、女性であることなど、様々なレイヤーの視点があると思いました。すでに忘れられてしまった、あるいはあえて顧みられない、顧みられてこなかった事象や歴史を再び浮かび上がらせ、可視化するという意志も強く感じました。
本来のご専門である美術から出発して、あのような形の舞台表現に向かわれたことにもとても興味を持っています。お尋ねしたいことはたくさんありますが、まず、サイレン・ウニョン・チョンという名前について教えていただけますか。

サイレン・ウニョン・チョン(以下、サイレン):英語では siren eun young jung と全部小文字で書きます。サイレンというのは大学生の時に自分でつけた名前で、あだ名でもあり、皆からそう呼ばれたいと思って選んだ名前です。私が大学に入学した1993年当時は、韓国の大学では民主化運動の勢いが少しくじけ、学校内運動へと変容する時期でした。そのなかでも、特に私は女子大出身なので、フェミニズム運動の影響が強かったのです。
フェミニズム運動を始めるにあたり、最も大事な儀式として、家族からもらった苗字を捨てて、自分で名づけることがちょっとしたムーブメントになっていました。周りの仲間も皆自分に新しい名前をつけることに夢中でした。私はギリシャ神話からとった「危ない女」という意味の名前を自分に与えました。それをずっと使い続けたかったのですが、社会に出るとオフィシャルな名前が必要になるので、どうすればこの名前を使えるか考えた末に、英語のアーティスト名として siren eun young jung を使うことにしました。全部小文字なのでどれが固有名詞か見極められないし、韓国語だと苗字が先に来るのですが、英語表記のように苗字を最後に置き、下の名前、本名、芸名を全部小文字で組み合わせました。展示をしたり自分の資料を送る時にこの名前を使うと、国籍や性別、呼称について騒ぎが起きます。自分はその騒ぎを一種の政治的なプレイだと思っています。

―ちなみに、他の方はどのような名前をつけていたのですか? 

サイレン:フェミニストの間で多かったのは、「イッタ」もしくは「イダ」(いる、beingの意味)、「ドェダ」(なる、becomeの意味)、あるいは女性であることを強調する名前、なかには女性器の名称をそのまま名前にする人もいました。半分以上はすごくアグレッシブな名前でした。

  インタビューに答えるサイレンさんの写真

写真:鈴木穣蔵

―サイレンさんは大学で美術を勉強されて、英国のリーズに行き、美術におけるフェミニスト理論と実践を専攻し、修士号を取得されていますが、英国留学はサイレンさんのフェミニスト的思考に大きな影響を与えたのでしょうか?

サイレン:学部を卒業して大学院で修士も取り、アーティストとしてはすでに活動していました。ただ、ずっと同じ場所で、同じアイデンティティで空回りしているような感じがすごくもどかしく、どこでもいいから逃げ場が必要でした。勉強する気はまったくなかったのですが、英国では英語学校に短期間登録するだけで1年滞在ビザが取れると聞いたので、英語学校に6ヶ月間登録してビザを取り、そのまま居残るつもりで行きました。そのうち、リーズ大学にグリゼルダ・ポロック(Griselda Pollock) という有名なフェミニスト美術史学者がいることを知り、その大学に入学しようと彼女を訪ねました。
英国に出発する前、自分にとって、とても重要な展覧会を行いました。サムジ(ssamzie)というアパレル会社が所有する美術館が、毎年新進気鋭のアーティスト3名を選び展示をしていたのです。その年、私が選ばれて作品を展示したのですが、それは、私が書いた小説を題材にしたものでした。女が道に迷い、ある日突然姿を完全に消してしまうという物語です。そしてその展覧会のオープン後、私自身も姿を消したのです。英国に旅発ったのですが、姿を消したかのようにパフォーマンスをしたわけです。誰にも何も話さず英国に向かい、1年粘り、グリゼルダを訪ねたら受け入れてくれて、翌年には1年間修士課程で勉強をしました。
英語もそれほど堪能ではなく、勉強する準備が何もできてなかったので、修士1年目は本当に大変でした。グリゼルダ先生には「フェミニズムは実践である。座っているだけではどうにもならないからとにかく作品をつくり続けるべき」と言われました。その言葉が自分の人生にとても大事な教えとなっています。ですので、英国留学が自分の創作活動をより豊かにしてくれたというよりも、何をすべきなのかをわからせてくれ、そして何かをし続けること自体が大事であるという「態度」を身につけさせてくれました。

そういう先生にめぐり合えて良かったですね。その後、ヨソン・グックと出会ったのは、どういう経緯だったのでしょうか。

サイレン:英国から帰国後も、主に自分の経験や周りの女性たちの経験を題材にして創作を続行しました。周りの人々の経験に耳を傾けていましたね。自分は中産階級に生まれ、それなりに勉強もした女性としての経験をもち、一方で、町に住む美容院のおばさんがドメスティック・バイオレンスを受けて死んだという話がある。そのふたつをつなげるような、日常的な女性たちの物語を作品化していました。
そんななか、初めて地域をベースにする、いわゆるコミュニティアートに参加することになったのですが、その地域というのが京畿(ギョンギ)道の東豆川(ドンドゥチョン)市で、日本の沖縄のような、米軍基地のあるまちでした。 米軍兵士を相手に身を売る女性たちとの作業が、自分にとってはあるコミュニティに入り込む初めての試みとなりました。その後ヨソン・グックと出会うことになりますが、そこにたどり着くまでの間には、架け橋になるような出来事がもちろんありました。女性についての作品創作を続けているとはいえ、あまりにも大変なコミュニティに入ってしまったんでしょうね。自分が女性に関する創作を手がけていること自体が嘘っぽく感じられ、アートという名のもとに、どこまでコミュニティに介入できるものか、そもそも女性であることがどういう意味なのか苦しんだあげく、創作を辞めたい気持ちまで持つようになりました。
その頃、演劇理論・社会学・文化学を勉強している先輩から、女性学・文化学的見地からヨソン・グックの研究を始めるところなので、気晴らしに一緒に行ってみないかと誘われました。そこには違う世界があるかもしれないし、と。

  インタビューに答えるサイレンさんの写真

写真:鈴木穣蔵

サイレン:その頃の私は、東豆川で韓国女性の代わりに働いていたフィリピン女性たちについてのリサーチから感じた階級主義や人種差別主義などに疲れ果てていて、フェミニストとしてのアート活動はもうダメかもしれないというペシミズムに囚われていたので、嫌でしたね。しかも、もう消えてしまったジャンルで、かつての役者は皆おばあさんのはずだから、またどれだけの悲しさに触れることになるかを考えると怖かったのです。
あまり気の進まないままついて行ったら、予想外に、おばあさんたちはとても元気で、誰の顔からも悲しみを感じ取ることはなかったのです。むしろ自分たちの全盛期をまだよく覚えていて、おばあさんにしては進歩的な発言をしたり、招かれていない客なのにまるで孫のように私を迎え入れ、自分の話をしてくれました。話を聞く私自身の気持ちもなぜかとてもリラックスしてきて、この方たちの人生を追ってみようと心の中で決めましたね。
彼女たちは自分たちのことを追い出された集団、韓国の主流から外れたグループだと思っていたので、よそ者に対しての警戒心も持っていました。自分たちと同じアーティストであるから私を受け入れてくれただけで、それほどオープンなコミュニティではありませんでした。自分がアーティストであり、彼女たちのこともアーティストとして捉えていることを証明するために、2年間できるだけ会話もしたし、果物の皮をむいたり、コーヒーを入れたりなどお世話もしながら、信頼を得るために努力しました。 それが、その後仕事ができる土台になったのでしょうね。

―何人くらいいたのですか?

サイレン:役者とファン、合わせて30人くらいでした。

ヨソン・グックのリサーチ

―2年かけてコミュニケーションをとりながら、近しくなっていったのですね。ヨソン・グックが1940年代末頃から生まれ、50年代を経て60年代から衰退していったことは知っていて、実際にその役者さんやファンと知り合いになった。そこから作品化するまで、何を考え、何に悩みましたか?

サイレン:最初の1年は自分の創作活動の話など一言もできないまま経ちました。その後の1年間は1人ひとりと会う時に、撮影してみていいですか、録音してみていいですかと尋ねながら、少しずつ記録を残しました。出会いを記録していったわけですね。
そのうち、そもそもヨソン・グックについての情報が一般にはまったくないので、まずは情報提供の方向性をもった創作でも良いかもしれないと思うようになりました。彼女たちに会った時の記録と、彼女たちがたまに立つ小規模なヨソン・グック舞台の記念写真を集めた記録を、ようやく作品創作に取り入れ始めたのが2009年末の頃でした。

―彼女たちの話を聞いたり、資料を集めたりするなかで、具体的にはどのようなテーマが浮かび上がってきたのでしょう。サイレンさんに関する資料を読むと、個人の願望や個人としての存在が、世界の様々な事象の中に取り込まれていくことにより、それがある種の抵抗になったり、歴史になったり、あるいは政治性を帯びていく、そのことに興味があると書いてあります。ヨソン・グックのドキュメンテーションをつくることにはどう当てはまりますか?

  インタビュー中の聞き手、山口の写真

写真:鈴木穣蔵

サイレン:まず、ヨソン・グックはほとんど記録されてこなかったですし、残っているシステムもほぼないので、1人ひとりを訪ねて話を聞くことしかリサーチの方法がありませんでした。彼女たちと対話を重ねてわかったことがありました。それは、彼女たちは偶然その仕事を、つまりヨソン・グックの舞台に立ったのであり、当時としてはそのことがとても政治的でかつ革命的だったという自覚が彼女たちにはない、ということです。女性が舞台に立つこと自体が不可能だった時代に、舞台に立つことを夢見ていた人たち。いかに政治的な行為だったのかご自身は気づいてないけれど、今の私にはそれを読み取ることができます。むしろ、資料のない歴史の隙間を歩くリサーチを進めるなかで、個人の願望が政治と歴史をつくり出していくことへの確信を持てるようになったプロセスだったと思います。

―サイレンさんのTPAM 2016でのプレゼンテーションで、ヨソン・グックが生まれたのは、日本占領時代にあった芸者学校にいた人々が劇団をつくったことがきっかけだとおっしゃっていました。当時のアジアの政治状況が、韓国のヨソン・グックの誕生に多かれ少なかれ関係しているということだったと思います。台湾や香港、日本にも、女性だけの舞台表現を行うグループがありますね。日本の場合は宝塚の誕生が確か1914年だったかと思います。他の国でもアジアの近代化や当時の政治状況との関わりがあるとお考えですか。

サイレン:日本についてはすでにご存知だと思いますが、小林一三は鉄道会社の社長で、鉄道と近代的なエンタテインメント、近代的なベッドタウンをつくるなかで宝塚を立ち上げたので、当然近代的な状況で発明されたジャンルだと考えています。香港についてはまだ勉強不足ですが、台湾オペラは現地で調べましたのでお話しできます。近代化前の中国では、男性は地域を守る役割を負い、エンタテインメントに携わるのは女性でした。むしろ男性が舞台などに関わるのは世間体の悪いことだった。なので低い階級の女性たちが劇団に売られたりして、各地を巡回しながら公演をする流浪劇団のなかで、女性劇という伝統が受け継がれてきました。特に、台湾オペラは北京オペラの伝統をすべて無視して作り声を使わず、とても近代的な歌い方で歌います。様式や舞台に対する姿勢などが、それぞれの国の近代化のなかで形づくられたと思えます。

―近代的な歌い方とはどういうことですか?

サイレン:古くからの歌い方である北京オペラの作り声や抽象的な歌を捨てて、日常的で西洋の歌い方に近いやり方で声を出す歌い方のことです。アジアで行われている女性のみの歌劇舞台をみると、そのほとんどは古典的な伝統が時代の流れに応じることで今に至った印象がありますが、宝塚だけは完全に近代エリートの頭からつくられ、近代という時代そのものを取り入れて作られたように見えます。

―一種の産業ですね。

サイレン:だからこそ、宝塚を観て、その近代の発明のような様式が非常に面白く感じられました。
英国の歴史学者、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)は「伝統というものはもともとなく、近代の発明品」と述べていますが、同じ意味でヨソン・グックと台湾オペラには自分たちを伝統の枠の中に閉じこめようとする熱望があるのです。しかし宝塚は伝統から身を振り切って、近代芸術としての線引きを明確にし、本当の近代的価値を体現しているというか。だからこそもっとも硬く変化のきかない部分があるのではないかと思います。

  インタビュー中の様子の写真

写真:鈴木穣蔵