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活況するドキュメンタリー映画シーン。注目の若手アジア作家たち

Report / 山形国際ドキュメンタリー映画祭

既存のドキュメンタリーの枠組みを超越する、アジアの新進作家たち

フィリップ・チアはトークセッションの冒頭で、東南アジアにおいても日本や他の国々と同様に、「1990年代後半にデジタル革命がはじまり、専門的な知識や経験が必要とされた従来の映画制作にこだわらない方法で撮りはじめたデジタルフィルムメイカーによるニューウェーブが誕生した」ことを述べた。また、東南アジア初の映画祭、シンガポール国際映画祭(1988年)にはじまり、特に2000年以降、インドネシアやフィリピンでも映画祭が活発に開催されていくなかで、「映画制作が都市部だけでなく、各地域でも行われるようになった」と背景を説明する。

トークセッション中の写真1

フィリップ・チア (c)halken

フィリップ:島国であるインドネシアやフィリピンは、各地域に多様な文化が残っています。2000年代に入ってから、都市部だけに限らないマイノリティーの声も聞きたいということで、国際映画祭が地方でも開かれるようになりました。これは、映画における民主化が起きたとも言えるできごとだったと思います。

今回のトークに登壇したのは、それらの映画祭でハリウッド映画をはじめとした商業映画とは異なるタイプの作品に触れて影響を受け、作家性の強い、新しい映画を自ら撮りはじめるようになった、さらに新しい世代の映画監督たちだ。しかし、一口で「東南アジア」と言っても、各国の映画を取り巻く状況や産業の規模には大きな差がある。シンガポール、ミャンマー、フィリピン3か国のなかで、もっとも経済規模の大きいシンガポール出身の二人は、現在いずれも国外に拠点を置いている。

ガージ・アルクッツィは現在ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで、巨匠監督タル・ベーラ(『ニーチェの馬』で第61回ベルリン国際映画祭銀熊賞、国際批評家連盟賞を受賞)が主宰する「フィルム・ファクトリー」に在籍しながら映画制作を行ない、ダニエル・フイはアメリカに住みながら、シンガポールの若手映画作家が集うインディペンデント制作集団「13 Little Pictures」でも活動している。とはいえ、それは単純に国外に活動の幅を広げたいという理由ではなく、国内では自分たちの作りたい映画ができないという状況があるからだという。「現在のシンガポールの映画業界に非常に怒りを感じている」とダニエルは言う。

トークセッション中の写真2

ガージ・アルクッツィ ©halken

映画のスチル画像

ガージ・アルクッツィ『太った牛の愚かな歩み』(2015)

ダニエル:私にとっては、シンガポールの映画が中国・台湾・香港といった国の映画の一部だとしか認識されていないことが問題です。また、映画産業が大きくなったぶん、映画でお金を儲けることが目的になってしまい、成功した作品を模倣した映画が大量に作られるなど、独自性や多様性も失われています。

トークセッション中の写真3

ダニエル・フイ ©halken

 また、シンガポールではマイノリティーにあたる、マレー系シンガポール人であるガージは、「自分の言葉であるマレー語で話せば、もっと自分の社会について深いことが語れるのではと、英語ではなくマレー語で映画を撮っている」が、国際市場を視野に据え、ほとんどが英語で制作されているシンガポール映画のなかでは異質の存在になってしまっているようだ。さらに「撮影技術のみに重きをおいたシンガポールの教育システムにも問題がある。私は演出を学ぶために韓国に1年間留学した」とも述べていた。

一方、フィリピンのバタンガス州の田舎町で生まれたジム・ランベーラは、故郷の風土や地域性を活かした作品を撮る、ニューウェーブ以降の作家を代表する一人だ。もともと音楽をやっていた彼は、ガールフレンドの家で見つけた8ミリのアンダーグラウンドフィルムをきっかけに映画に興味を持ち、「フィリピンの実験映画の神様、ロックスリーに会いに行き、彼から多くを学んだ」という。学校で学ぶことだけが映画監督になる唯一の道ではないのは万国共通のようだ。

ジム:彼からもらった最大のアドバイスは、「いい映画を作るには、満月の夜に撮りなさい」ということ。なぜだかわかりますか? 満月だと興奮するからです(笑)。そういう内容の有名な歌があるんです。

トークセッション中の写真4

ジム・ランベーラ ©halken

映画のスチル画像

ジム・ランベーラ『太陽の子』(2014)

 さらに、「私にとってドキュメンタリーとは、家族の写真を撮るようなものだ」というキン・マウン・チョウは、ミャンマーでもマイノリティーであるモン族の出身。映画産業の規模もまだ小さく、ドキュメンタリー映画を見ることができる環境も限られているミャンマーで、志を共にする仲間たちと独自の映画空間を開拓している。