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マレーシア、フィリピン、タイの批評家の視点から――芸術批評、メディアと「東南アジア」

Interview / Asia Hundreds

アジア・ハンドレッズのロゴ
ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

批評家から見た各国のアートシーン

内野儀(以下、内野):本日はお集まりいただき、ありがとうございます。みなさんが来られた国・地域、あるいは東京であっても、舞台芸術の分野はそれほど大きなものではありませんので、それぞれの背景を考えてみても、話題を舞台芸術の分野だけに限定する必要はないでしょう。もっと一般的に言って、文化アクティヴィスト、批評家、ジャーナリストとして、現在的な問題点やご自身の関心事はどのあたりにあるということになるでしょうか?みなさんの専門分野でいま、何が起こっているのか、できるだけ多く知りたいと思います。

シャーミラ・ガネサン(以下、シャーミラ):今、内野さんがおっしゃった3つの役割というのはとても興味深いですね。マレーシアでも舞台芸術は比較的小さな分野で、公的な組織は存在しません。ごく最近になって、この分野の利益を代表するようなグループを立ち上げました。美術も同様に、自分たちのグループを立ち上げようとしているようです。

批評やアート・ジャーナリズムを代表するような組織や集団はありません。ですから、自分自身をどのように見ているのか自分でもよくわからないんです。また、自分を批評家と呼ぶことにもためらいがありますが、それは私の仕事の大半がそうではないからです。私の仕事の多くは、実際にはもっとジャーナリスティックなものです。批評家というよりも文化ジャーナリストと呼びたいのですが、批評も書いています。これが本当に問題なのです。専門家や担い手が不足していますから、多くの人が複数のことを掛け持ちしなければいけません。アクティヴィストでもあるジャーナリストもいます。批評家でもあるパフォーマーもいれば、アクティヴィストでもあるパフォーマーもいます。皆が相互に関係しあい、何が問題か理解していて、距離が近く、みんなで一緒にやっているという感覚があるので、それはよいことです。しかし、これらの分野での仕事の多くでは、報酬を得ることができません。また、専門家になる人がとても少ないということがあります。私は、自分がカバーしているどの分野でもスペシャリストとは言えません。そうなりたいとは思っていますが、舞台芸術や美術についてだけ書くという贅沢はできません。それだけをやっていたら、お金はもらえませんからね。私にとって、これはコインの裏表のようなものなのです。

内野:現在、マレーシアの文化セクター、あるいはそれに相当するものが直面している問題は何だと思われますか?

シャーミラ:断片化と言ってもいいかもしれません。言語、地域、さらに、インディペンデント系の劇団・劇場と従来型の劇団・劇場ですね。この場合、後者はより大きく、より組織化された劇団・劇場です。そういうふうに分かれているからです。

内野:従来型の劇団・劇場は商業的なものですか、公的なものですか。

シャーミラ:公的資金で運営されているメジャーなものが1つか2つありますが、大半はそうではありません。民間の独立した形態ですが、場合によっては30年以上の歴史を持つ劇団・劇場と、設立されたばかりのインディペンデントの劇団・劇場があります。両者の運営方法は大きく異なります。ですから、まとまりを見つけるという意味では、断片化は一つの問題です。また、資金面でも大きな問題があります。政府から芸術への助成金はあまりありません*1。観光セクターからの資金提供が多くなってしまいます。ですから、「私たちにとっての投資効果は?」、つまり、「これだけの資金を投入したら、どれだけの利益をもたらしてくれるのか?」そういう考え方ですね。

*1 COVID-19の大流行以来、マレーシア文化経済開発庁(CENDANA)は、芸術を維持するために一定の政府資金を投入している。

内野:公立の美術館はどうでしょうか?

シャーミラ:国立の美術館がいくつかあります。ナショナルギャラリーという名称のものは1つです。政府が公的資金を提供していますが、制約があります。政府は、よい現代美術とは何かを定義しますが、その定義は必ずしも皆が考えるものとは一致しません。

インタビューに答えるシャーミラ氏の写真

内野:なるほど。アミターさんはいかがですか?

アミタ―・アムラナン(以下、アミター):状況はとても似ています。タイでは、演劇や舞台芸術を専門とする批評家は非常に少なく、ほとんどの批評家は映画やテレビ、その他の文化ジャンルについても書いています。フリーランスのライターとして生き残るためには、10のオンラインのジャーナルに書かなければならないかもしれません。私は幸いにも教える仕事ができています。他の仕事もしたことがあります。英語で書いているので、タイ語で書いているライターよりも給料が高いのも幸いでした。

内野:それはなぜですか?

アミター:たとえばバンコクポスト紙の給料は、他の印刷媒体よりも高いことで知られています。これは、海外に留学して海外の大学で学位を取得すると、ほぼ自動的に給料が高くなるということと同種なのだと思います。英語で書いていれば、それだけで普通は給料が高くなります。私はチュラロンコーン大学の国際プログラムで教えています。その意味では運が良かったと思います。しかし、私の読者は少なく、私の専門分野以外の人脈も少ないのです。ただ、主に英語で書いているので、私の文章はタイ以外の人にも届きます。私はこのような仕事ができる数少ない一人ですが、多くの人はタイ語で書いています。そう、専門性は問題なのです。

新聞などの出版物も、そのような内容を掲載することを期待していません。編集者が誰かに演劇批評を書くように指示することはなく、私が編集者に「タイの演劇について書きたい」と言わなければなりません。それほどタイの舞台芸術は小さく、無力なのです。

内野:舞台芸術があまり報道されないのは、そういう理由からでしょうか。少なくとも、日本ではそうなっているように思えます。

アミター:この分野は比較的小さいですが、成長しています。しかし、たとえば映画の批評に対する需要に比べれば、まだ小さいですね。人々はそこまで関心がないのです。

内野:映画と比べて?

アミター:そうですね。書評もあまり気にされませんね。

シャーミラ:私たちにとっても、それは問題です。私は以前、英字新聞で働いていましたが、オンラインに移行したことで、他の出版物でも同じようなことが起こっています。ページビュー数や読者の数は把握できます。経営陣は、往々にして「こんな舞台評は誰も読んでいない。誰も演劇のレビューなど求めていない。演劇の評も書籍の評も誰も求めていない。それなら、それを担当するライターを配置する意味はあるのか?たった300人の読者しかいないのに、なぜ4人のライターに芸術に関する記事を書かせなければならないのか?」という風に考えます。

アミター:だから、はっきり自己主張して、編集者の信頼を得なければなりません。私は幸運にも、最初から自分のやりたいことをやらせてもらえました。

内野:個人のブログやソーシャルメディアには多くのコンテンツがあって、レビューがネット上で目立たなくなっているということもあるでしょう。それも問題ですか?

シャーミラ:私たちにとっては、すべてが一緒になっているのです。私たちはとにかく人数が少ないので、正直、個人のブログやウェブサイトがあるのは素晴らしいことだと思っていますが、これらの人々はお金をもらっていません。つまり、情熱を持ってやっている人か、ほとんどお金をもらっていない人がこれらのウェブサイトに書いているので、結局、エコシステムは健全ではないのです。

アミター:また、自分をどうラベル付けするかという問題もあります。私は最初から自分のことを「批評家」と呼んでいます。というのも、人が批評家と言うのをためらうのが嫌だったからです。「批評家」という言葉があまりにも高尚で、深刻で、堅苦しいものだと思われているなか、人々は、「批評家」ではなく、情熱をもった芸術愛好家あるいは支援者だと見られたいと思っているのですよね。タイでは、「批評家」という言葉には否定的な意味合いがあります。

カトリーナ・スチュアート・サンティアゴ(以下、カトリーナ):ラベルの問題は大きいですよね。特にマニラではね。というのも、政治的な状況を考えると、芸術文化の分野だけでなく、一般的に何が問題なのかと問われれば、それはまさに「沈黙」だからです。政治的なことであれ、自分は好きではないのに、みんなが好きだと思っているような作品を見たときであれ、話しにくいことを話すのはとても怖いことです。批判を口にした途端、それがどんなに優れた内容であっても、「好きじゃなかったから」と攻撃されてしまうのです。

内野:誰から攻撃されるんですか?

カトリーナ:制作を担当した人からね。あるいは、実際に気に入った人からも。

アミター:実際に検閲されるということですか?

カトリーナ:いえ、そうではありません。しかし、彼/女らはオンラインで攻撃しはじめます。ここで、批評がブログやソーシャルメディアの影響を受けるのかどうかという問題が出てきます。この10年で、マニラの書評が紙媒体でもオンラインでも減少しているのを目の当たりにしてきました。オンラインであれ紙媒体の新聞であれ、私が過去に書いてきたそういうメディアについても、レビューや批評が掲載されることが珍しくなりました。ある出版社では、若手のライターに「レビューはもう歓迎しない」と言っていました。歓迎されるのは、作品や展示に関するプレスリリースか、作品に参加しているアーティストにインタビューする特集記事です。

アミター:めんどくさいことに巻き込まれたくないから?

カトリーナ:そうですね、批評家に対する反発を避けたいということもあるでしょうが、実際のレビューや分析から、宣伝文句や無料のオンラインコンテンツへとシフトしていることも関係しているのではないでしょうか。マイクロブログの多くは、いいことしか話さないようになっています。たとえば、インスタグラムに何かを投稿して、俳優たちがいかに素晴らしかったかを語り、それがレビューと呼べるほど批判的でなくても、レビューとして通用してしまうのです。作品をよりよくするための建設的な批評ではなく、作品を売り込んでいるような文章が多いのが現状です。

このような考え方があるからこそ、マニラでは、特に私の世代では、本当の意味での文化批評があまり行われていないのです。また、数少ない文化批評を行っている人たちも、ある人は映画を、ある人は音楽を、というように専門化する傾向があります。私たちは皆、独立しています。なぜなら、私たちがやりたい仕事には誰もお金を出してくれないからです。これは、インターネットや情報の速さの賜物でもあると思います。もし、20人の人にお金を払って、ある作品についてまったく同じことを言ってもらえば、その20人は自分の投稿を他の20人にシェアしてもらうことができ、その結果、作品や出版物がレビューから得る利用価値よりもポジティブな利用価値を得ることができます。そのようなコンテンツへの「いいね!」や「シェア」が、本来的なレビューや批評を圧倒するのです。

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