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『シアター・プノンペン』にかけた願い ――暗い時代を乗り越えて、その先へ

Interview / Asia Hundreds

キャスティングへの信念とこだわり

渡辺:母親役を演じられている女優さんは、生き残ってフランスに亡命し、戻ってきた方が演じられてますよね。彼女が役を演じられている時の状態とか、感情というのはどういったものだったのでしょうか。

クォーリーカー:彼女は大虐殺の時代にはカンボジアに住んでおらず、既に国がより経済的にも良くなり始めた頃に帰国したので、大虐殺を直接経験していません。また、その時期に家族を失ったということもありませんでした。
この映画は母と娘の愛情の物語です。主人公のソポンは私で、ソポンの母親は私の母です。だから私は自分自身の感情や母の気持ちを共有し、母の気持ちをソポンの母親に込めたんです。映画の撮影前に私たちは非常に多くの時間を使って話し合い、彼女はそのことを理解してくれました。撮影中にも各シーンで彼女に話をし、時にはクメール・ルージュの映像を見せたり、私が仕事をしたドキュメンタリーのことを話したり、どんな人たちが何を経験しどんなトラウマを抱えているかを何度も繰り返し話しました。彼女はプロの女優です。だから私の感情や物語を理解してくれ、彼女は映画の中で私の母になったと思います。

渡辺:抜てきされた主役の女優さんはどうでしたか。映画の撮影と共に、彼女自身も成長していったんじゃないですか。

クォーリーカー:そうですね。私の世代とソポン役のマー・リネットの世代にはギャップがあります。私はテレビ、インターネット、SNSなど何もない時代に育ち、リネットは様々なものにアクセスできる新しい時代に育ちました。ですが、私は2歳半、リネットは14歳の時と、ふたりとも幼い頃に父親を亡くしているため、同じ感情を共有することができました。 また撮影前に個人的なこともたくさん話し、共通項を見つけられました。
リネットとは6ヶ月間一緒に仕事をしましたが、その間、強い女性キャラクターが出てくる映画を選んで観てもらいました。負けん気が強い女の子を演じてほしかったんです。伝統的なカンボジアの少女は自分の権利のために戦うというタイプではなく、言われたことに従うようなタイプで、自分の文化や歴史を知りたいという少女を見つけるのが難しいんです。そのため、当初はカンボジア国外から、例えばフランスやアメリカにいるカンボジア系の少女を連れてきてはどうか、というアドバイスを多く受けたのですが、カンボジア出身でカンボジアに住み、この過去の歴史と共に生きてきた少女でなければダメだと思っていました。カンボジアで自分の過去と文化に向き合い、それを知りたいと望む強い少女を演じるよう、リネットには伝えました。彼女は歴史にとても興味を持っていたので、歴史の本を読んだり、情報交換をしたり、ご飯を食べたり、一緒に仕事をして過ごすなかで、徐々に時間をかけてソポンという役を形成していったという感じです。

映画のスチル画像

(c) HANUMAN CO. LTD.

渡辺:この役者さんたちをどうやって探したんですか。キャスティングは監督がおやりになったんですよね。

クォーリーカー:はい、そうです。映画の出資は95%家族から募り、外部からの出資はほとんどなかったので、撮影前には多くのことを自分たちでやらなければいけませんでした。キャスティング、製作、美術も全部私の担当でした。ただ、これまで長年海外の映画人たちとの製作でライン・プロデューサーを務めていたので、どこで役者を探せばいいかは把握していました。
まずソポン役は、国立劇場、美術学校や学校、それと普段は行かないんですが、カラオケ・バーにも探しに行きました(笑)。最終的に雑誌でリネットを見つけたのですが、変な雑誌名だったので一旦やめようと思ったんです。でも完璧なカンボジアのクメール美人だったので、その美しさに魅了されてカメラテストを受けるように電話しました。リネットは演技経験がほとんどなかったので、最初の何回かのオーディションでは他の役者と同じように非常に大袈裟な演技をしていましたが、何度も会い個人的な話をしたりするなかで、彼女をもっと深く掘り下げることができると確信したんです。

渡辺:映写技師の役はキャスティングがすごく難しかったのではないですか?

クォーリーカー:そうなんです。映写技師は過去に生きる人で、過去がないと生きていけないという非常に複雑な役です。カンボジアの旧世代は過去について考えたがらないし、ましてや過去にしがみつくなどありえないので、この役を演じたいあるいは演じられる俳優を見つけるというのはとても難しかったです。そのため技師役のソク・ソトォンとは、家族のことやこれまでの経歴、個人的な話などいろいろな話をし、その後で映画の物語について話して、こういう役が必要だと説明しました。最初は、彼は「嫌です。これは嫌だ」と、この役を引き受けたくないようでしたが、最終的には彼はこの映画の全体の物語に魅せられ、引き受けてくれました。

渡辺:だけどいい役ですよね。難しいけど、この映画技師役は役者だったら誰しもやりたいと思うでしょうね。日本の映画では、映画技師で悪人というのは出てきませんからね。この役も悪人じゃないですけど、一番気の毒な悲しい役ですよね。死ぬまで報われない心情と傷を抱えて生きていかなきゃいけないっていう役は、役者としては絶対に演じたいと思うんですけど。でもこの俳優さんは、自分の役じゃないと拒絶なさったんですか。

クォーリーカー:ええ。脚本を読んで、演じたくないと。でもそれは私がうまく説得できなかったからかもしれません。監督であるなら、どうやって彼にやる気を出してもらうかを真剣に考えないといけないです。でも多分、映画を見ていただいたら、どれぐらい彼が後で乗ってきたかっていうのが分かっていただけると思います。

渡辺:完成した後、俳優さんはすごく満足してらしたんじゃないですか。

クォーリーカー:ええ、そうです。技師役のソトォンは、途中でこの役が本当に不幸な役だということに気がつきました。『シアター・プノンペン』には、作品の中に短い映画(以下、映画内映画)が挿入されているのですが、その映画内映画でも愛を得ることができず、現実の世界でもやっぱり望んだものが手に入らない。いずれにしてもとても不幸な役なんです。ソトォンは役柄が持つ多層的な個性を気に入り、演技に挑戦するのを楽しんでいました。

渡辺:廃虚になりかけた映画館の中で、ひとりの男がフィルムを回しているというだけで、泣けますからね、日本人はみんな。

クォーリーカー:そうですか。泣いちゃいますか、それだけで。じゃあ日本ではヒットするかしら(笑)。

インタビューの様子の写真5

暗い時代を乗り越えて、その先へ

渡辺:日本人の心情と重なってくる場面がたくさんあって、私は日本の観客はこの映画を見たみんな、泣くんじゃないかというふうに思います。幻想的な川のシーンもそうです。農村の娘が王子様に恋をし、蓮の花の間を舟でずっと行くようなシーンがあります。私は山形県の山形市という本当に田舎の出身なんですが、私が子どもの頃に抱いていた、「王子様がいつかさらってくれるんじゃないか」と思っていたような乙女心と重なってくるんですよね。王子様が現れて、そしてその映画の結末がどうなるか分からないっていう。それはカンボジアの乙女と同じ、万国共通の夢でしょうか。乙女心に憧れるような内容なんですが、そのシーンを映画の中に入れようと思ったのはどうしてですか。

クォーリーカー:私としては映画でカンボジアの文化を紹介し、カンボジアの若い世代に自分たちの文化に興味を持ってほしかったんです。この映画には暗い側面と明るい側面があり、明るい側面に暗い側面が影を落としています。映画内映画では、美しい寺院や文化や音楽を入れて、カンボジアの明るい側面とカンボジア映画の黄金時代も紹介したいと思いました。

映画内映画には、カンボジア映画の黄金期に描かれた典型的なモチーフを引用しています。黄金期の映画は例えば王子様や王女様が出てきたり、王子様が馬に乗ったり蓮の花の池が出てきたりというように、日常生活からかけ離れたモチーフで作られました。その時代の映画を引用することで、カンボジアの様々な世代の人たちに自国のその時代の映画を見るように促し、私たちの歩んできた道と素晴らしい文化を誇りに思ってほしいと思ったんです。暗黒の時代だけでなく、私たちには何世紀にも渡る輝かしい時代があり、寺院は今でもそこに建ち、私たちの使うこの言葉も、全てがとても美しいものです。なぜ私たちはたった3年の暗黒時代によって形作られてしまうことを許してしまうのでしょうか。もっと先を見据え、3年間の暗い時代を乗り越えてその先へ行ったほうが良いと思い、この映画には明るい側面と暗い側面両方を描いたのです。

インタビューの様子の写真6

また、この映画はありとあらゆることを描いています。全てを入れようと思うと、105分という映画の尺には収まりませんが、それでもカンボジアの文化や歴史、良い面や悪い面、カンボジア女性や国の美しさ、今生きている現代社会も描いています。カンボジアは「アンコール・ワット」と「クメール・ルージュ」のふたつだけが有名ですが、それだけではない、観客が知るべきカンボジアのほとんどの要素が詰まっている映画です。

渡辺:監督の思いは、観客に通じていると思います。私たちのように、映画を作って人に喜んでもらうための仕事をしている人間にとっては、映画館がなくなってしまう、映画の作り手が殺されてしまう、製作の環境が破壊されるってことが、一番絶望的なことですよね。人を喜ばせるために私たちは作品を作りたいですよね。その人々が消えざるを得なくなる状況を、なんとしてでもこれからも防いでいきたいですよね。そのためにこの映画を作られたんだなというふうに私は思っているのですが、いかがですか。

クォーリーカー:そのとおりです。大虐殺の頃、クメール・ルージュはあらゆる知識人を殺しました。映画製作者も知識人と考えられていました。クメール・ルージュはまず芸術家と映画製作者を先に殺しました。彼らはとても力強い存在だからです。彼らこそが、他の人にメッセージを伝える役割を持っていたからです。人々は彼らの作り出す作品を通して、話を聞いたり社会を理解したります。そのためクメール・ルージュは過剰反応し、第一の標的にして処刑したかったんだと思います。

渡辺:それで、完成した映画を、お母さまがご覧になって、どのようにおっしゃっていましたか。

クォーリーカー:この映画は私と母との過去についての対話の形でもあるので、母が映画を観終わった時に何を言うか、観ている間とても緊張しながら待っていたんです。映画の最後にはスタッフロールが流れますが、母は最後まで座って観て、終わった後「皆の名前を入れたんだね」と言いました。それが母の第一声でした。私がスタッフロールにあの時代に亡くなった私たちの家族の全員の名前を入れたからです。母はそれを観て心を揺さぶられたようでした。私は、彼女の抱える喪失が、そこで和らいだような気がしました。しかしその時点では、母はまだこの映画の物語がどれほど深く私たちの家族とつながっているかは知らなかったんです。

先週日本映画大学で講演を行ったのですが、そこではカンボジア映画の歴史について説明をし、カンボジアの国の歴史とあわせて、なぜ私が映画を作ったかを話しました。母も講演を聞いていたのですが、母は「あなたをもっと理解することができたので、来て良かった」と言ったのです。訪日中インタビューの際、母は私を支えてくれるためにその場にいてくれるのですが、そのことを通じて、私の意図や私の望むもの、家族のつながりを理解でき、そして映画とのつながりも理解できたと言ってくれました。私たちは過去についてお互いから学びあう過程にあると思います。そして、私がなぜ映画を作ったか、なぜ過去を理解することが私にとって重要なのかということも理解してくれました。映画を作り始めてから、過去について私と母の間の対話がよりオープンになったと思います。

渡辺:一番の観客になってくださったってことですね。お幾つですか。

クォーリーカー:70歳です。今も心も見た目もとても美しい人で、私の強さの源であってくれる人です。

渡辺:そうですね、本当に。今回このような機会をいただけるということで、いろいろ本など買って勉強しました。本当に知らないことが多かったですし、今日監督とお話しできたことで、ますますカンボジアが好きになりました。だからぜひカンボジアに行って、監督とまたお会いしたいと思っています。今日はどうもありがとうございました。

インタビューの様子の写真7

【2016年5月25日、国際交流基金JFICホールにて】


編集:滝本亜魅子、小島佳(国際交流基金アジアセンター)