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国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
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アヤン・ウトリザ・ヤキン――インドネシアにおけるイスラム:その役割と挑戦

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

グローバルな学問の世界から地域の小学校へ

藤岡恵美子(以下、藤岡):まずはじめに、これまでのご経験と現在の活動について教えてください。

アヤン・ウトリザ・ヤキン(以下、アヤン):私は、インドネシア、エジプト、フランス、英国そして米国で、長い期間を勉学に費やしました。そして、イスラム教の教師としても、地域社会の子どもたちやその母親たちのために、様々な活動を行ってきました。インドネシアでは、多くの母親は外で働きません。家にいて、子どもたちの世話をします。午後になると、彼女たちは一番近くにあるモスクへ行き、地域のイスラム教徒の集まりに参加します。私はいつもそこで授業を行うのですが、これは自分が属する共同体のとても大切な関わりです。ご存知のように、インドネシアは人口2億5千万人の大変大きな国です。国は女性のエンパワーメントや、子どもたちに最良の教育を与えるために努力していますが、政府がすべてを与えることはできません。ですから、市民社会の一員として、小さな役割かもしれませんが、私たちひとりひとりが貢献する必要があります。私たちイスラム教の教師がモスクや小さな集会場で宗教や一般科学について教えているのは、そのためです。

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アヤン・ウトリザ・ヤキン(中央)と
イスラム・コミュニティの人たち
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小学校の児童たちと

アヤン:私は、西ジャワ州のブカシにある私立小学校の校長も務めています。今から3年前、フランスと米国から戻った2013年に、この小学校の校長職を引き継ぎました。想像できますか?パリで博士号を、ハーバード大学で博士研究員資格を取得した直後に、インドネシアの地方都市にある小学校で職に就いたのです。最初はとても大変でした。ではなぜ私がこの仕事をしているのか、ということですが、インドネシアのムスリム知識人の多くは、修士号や博士号を取得すると草の根レベルの仕事をしたがりません。彼らは象牙の塔の住人になります。つまり、私がこの20年間にやってきたことは、地域社会と積極的に関わることであり、多くの同僚たちや友人たちとは異なる生き方と言えます。

藤岡:それは大変だったでしょうね。高度な知的思考が求められる西洋の学術的な世界から、幼い子どもたちの面倒を見なければならないインドネシアの地域の小学校へ、全く異なる世界に飛び込んだのですから。

アヤン:その小学校のために多くのことをやりましたよ。カリキュラムや管理システムを開発し、学校にコンピューターを設置し、そして教師たちの能力向上に努めました。また、大学や大使館に勤務する同僚たち、特にフランス大使館と協力しました。フランスの教育機関を卒業し、フランスに7年間住んでいたので、人脈は豊富でしたから。

インタビュー中のアヤンさんと聞き手 藤岡

藤岡:その人脈を子どもたちのためにどのように活かしたのですか?

アヤン:最初の年に、アラビア語と英語に加えてフランスの言語と文化を教えることを決めました。しかし、抗議する親たちもいました。「何をしているのだ?フランス語は国際語でないのだから、必要なのはフランス語ではなく、もっと英語の授業を増やすことだ」と。それでも私は断固として、この文化交流を実行するために戦い続けました。1年後、子どもたちは簡単なフランス語の会話をし、フランス語の歌を歌うことができるようになっていたので、最終的に親たちはその成果をとても喜びました。学校には6歳から12歳の子どもたちが在籍しているのですが、多様な言語や文化に触れることで、柔軟で寛容な心を身につけることができます。子どもたちは、初期の段階から柔軟なものの見方をするように教育されるべきです。それが、国のより良い未来を創造することにつながるのだと、私は思います。

教育が鍵となる

藤岡:ご自身の子ども時代について教えてください。

アヤン:私は家族から、人生で最も大切なものは正直であること、知識、そして見識である、と生まれたときから教えられてきました。私の父はかつて民間企業に勤務していましたが、その後イスラム教の教師になるために退職しました。彼は今も教師として教えています。母は5人の子どもを持つ平凡な主婦でした。父を見ていたので、私は教師として生活することがどんなに難しいかを知っていました。幼い頃、家族の食事が米と塩だけ、ということもありました。それ以外何も食べるものがなかったからです。その頃の経験から、不安定な状況を乗り越え、よりよい生活をする唯一の方法は、教育を受けることだと学んだのです。見識と知識は、我々を豊かにしてくれます。「豊か」とは、金銭的な意味ではなく、人生経験や社会への貢献、人脈づくりにおいてということです。私は、自分自身に勉学に全力を尽くすことを誓い、さらに修士号や博士号を取得するために留学することを夢見ていました。

インタビューに答えるアヤンさんの写真

アヤン:現在、自分が所属するコミュニティの教師であり、小学校の校長であると同時に、国立イスラム大学ジャカルタ校でも教鞭を執っています。正直なところ、インドネシアで(大学の)講師として生きるためには、貧しい暮らしを覚悟しなければなりません。インドネシアでは、大学の講師や学校の教師の給料はとても低いのです。でも、私にはその覚悟ができています。様々な国で学んだ後、これが自分の国に貢献できる方法であると考えているからです。私には、若い世代にモチベーションを与え、彼らが「夢見る」ことをサポートする義務があるのです。インドネシアに伝わる格言に、gantungkanlah cita-citamu setinggi bintang di langit[空の星ほど高い夢を持ち、困難なことに挑戦しよう]というものがあります。私よりも上の世代の人たちが海外へ行き、自分たちの経験を語って、私たちを勇気づけてくれました。それはまさに、海外で学ぶという夢を私たちに与えてくれた彼らからの激励です。実際、夢を持つことは大切ですが、より重要なのはそれを実現していくことです。