ASIA center | JAPAN FOUNDATION

国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
心と心がふれあう文化交流事業を行い、アジアの豊かな未来を創造します。

MENU

DANCE DANCE ASIA―Crossing the Movements 東京公演 2019 3T×KATSUYA――ヒップホップの本質を失わず、その裾野を広げるために

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

ダンスで見せられるもの、その可能性を広げたDDA

小杉 厚(以下、小杉):最初にお二人のダンスとの出会いから教えていただけますか。

3T:ダンスを始めたのは14歳、2002年の末から2003年にかけてですね。それから2011年まではBboyスタイルで踊っていました。そして2011年からコンテンポラリー的なダンスを学びました。

KATSUYA:あまりはっきり覚えていないけど、小学4年生の頃に母親がダンススタジオに連れて行ってくれたのがきっかけです。勉強もしてないし運動もしてないからとりあえず、みたいな感じだったらしいですけど(笑)。

小杉:最初からダンスが好きだったわけではなかったのですね。

KATSUYA:最初は無理矢理行かされてました。でも、そこでヒップホップに出会い、いつの間にかハマっていきました。ブレイクダンスにウィンドミルという技がありますけど、それを当時の先生が見せてくれたときに「うわっ、なんだこれ! ヤベえ!」と驚いて。自分もやりたいと思って、Bboyの道に入ったというか。

3T:僕がダンスを始めた中学2年生の頃は、ベトナムでヒップホップが流行っていたんですよ。だからヒップホップをやるとカッコいいし、モテるだろうと思って(笑)。

KATSUYA:(笑)。

3T:若かったですね(笑)。その後サークルに入り、ヒップホップの仕事もやりました。ベトナムでは通常、高校を卒業したら大学に入るものなんですが、私は進学せずにダンサーの仕事を始めたんです。最初、親はちょっと心配していましたけど、世界的な大会で活躍できるようになってからは、賛同してくれるようになりました。

KATSUYA:うちは母親がずっと応援してくれていて、どちらかというと父親は「そんなことやってないで…」という感じでしたね。でも、中学生ぐらいから地元熊本の外に出て、海外でも結果が出てきたときに、遊びでやってるわけじゃないとわかってくれたみたいです。

3T:理解してもらえるまでにどれくらい期間がかかりました? 僕は4年くらいかかりました。

KATSUYA:僕もそれぐらいかな。

3T:というのもベトナムでは、親の理解がないとダンスの仕事はできないんです。僕も若い頃は舞台に出るのに必要な費用を自分で払っていて、お金がなかったから。

小杉:そんなお二人がBboyに感じた魅力とはなんだったのでしょう。

3T:自分が自分でいられるところですね。そして人とつながることができるところ。僕のグループには36人のダンサーがいるんですが、ヒップホップが私たちをつないでいます。ときには疲れたりストレスを感じることもあるけど、いつもメンバーは家族のように僕の側にいてくれる。彼らと出会えたことは運命だと思うし、こうしてKATSUYAにも出会うことができた。そこに言葉では言い表せない魅力があります。

インタビュー中の3T氏とKATUSYA氏の写真

KATSUYA:僕も言葉では言い表せないですね。ただ、個人的にはBboyだけにこだわっているつもりはないんです。Bboyはヒップホップの一要素であり、ダンスの一要素だと思うし、自分はもっと単純にダンスや音楽全体のことが好きなので。

もちろん、Bboyをやっていなければ出会えなかった人も大勢いますし、本当にいい経験しているなと思っていますけどね。もしダンスをやってなかったら…みたいなことは、ちょっと考えられない。

小杉:そんなお二人は、以前からDDAに参加されています。

3T:今のベトナムでも、Bboyはスポーツか身体表現かという議論がありますけど、僕がBboyを初めた当時は、道で踊っていると警察が来るような時代で。だからダンスを発表する場を探すだけでも大変でした。
ただ、僕は2007年にヤングダンス・ハノイチャンピオンカップという大会で初めて入賞したんですが、その頃からベトナム政府もダンスに関心を持ち始めたんですね。そこからBboyが広く認知されるようになり、僕も自信を持って活動できるようになってきた。そういう状況を体験しているだけに、こうしてDDAの大きな舞台に関わることができて純粋にうれしいです。気持ちが一気に上がります(笑)。

3T:今回の東京公演では、ほかの4チームとリレー形式で演じられるのもうれしいです。東京公演で上演する『What if...Just dance それでも僕はダンスを続けていく』という作品では、ダンサー一人ひとりの思いを動きにして物語が構成されています。彼らの思いが伝わるような作品にしたいですね。そして、僕は昔からダンスの大会にいつも全力で臨んできましたが、そのときの「あきらめない」気持ちをこの作品にも込めています。

KATSUYA:僕が一番最初にDDAに関わらせてもらったのが90’sというユニットで2015年。当時、同年代のいろいろなジャンルのダンサーと組んだのがきっかけで、ハノイとバンコクの公演に出演しました。それからもこのプロジェクトに関わり、一観客としても観てきました。
僕はショーケースやバトルには出ていましたが、舞台作品を作るとなると、最初はどうやればいいかわからない部分もありましたね。最初は「コレでしょ!」と自信のある感じでやっていたんですけど、演出家から「こうしたほうがいい」とか言われたりして(笑)。こうした経験が自分の表現にも少なからず影響を与えたし、ダンスで見せられるものの可能性を広げてくれたと思っています。あと、このプロジェクトのおかげで東南アジア中にダンサーの友達が増えました。

インタビュー中のKATUSYA氏の写真

3T:この数年、ベトナムの多くのダンサーがDDAに参加し、アジアの中でお互いの文化を知ることができたのはとてもよかったと思います。2015年のハノイ公演では、全国からベトナムのダンサーたちが観に来ていましたから。今もベトナムのダンサーはみんなDDAに参加したいと言っているので、ぜひこのプロジェクトは続けてほしいです。そもそもベトナムでは、1年に1、2回しか作品を発表できないので、こういった作品が上演される機会も少ないんです。

KATSUYA:ハノイ公演前日、僕は3Tも出演していたS.I.N.E* の公演を観に行ったんですよ。で、翌日のDDAハノイ公演を3Tたちが観に来たんだよね。

* 2011年11月11日にハノイで結成されたダンスグループ。Centaur Dance Showdown 2012で優勝、さらに2013、2014年には世界最高峰のバトル、Battle Of The Year南アジア大会で優勝。ストリートダンスに限らず、コンテンポラリーと融合させた作品も特徴で、フランスやドイツ、デンマークへ招へいされた際には好評を博す。ベトナムの伝統文化と現代カルチャーを融合させた彼らのダンス作品で、ベトナムを世界に向けて発信する。2015年のDDA東京公演では、3T演出・振付による『straight line』を上演。

3T:そのときからDDAにはとても興味がありました。今回、KATSUYAとクリエイションをすることになったのも、ハノイ公演で彼のダンスに魅せられたから。日本のフレーバー(雰囲気)を感じられるダンスだと思ったんです。2015年のDDA東京公演でS.I.N.Eの作品を上演したときにはベトナムのフレーバーをダンスで伝えることを意図してやっていましたが、今回はアジアンフレーバーでやれたらと思います。

KATSUYA:日本人が醸し出すものとベトナム人が醸し出すものをミックスした、アジアンフレーバーというか。アジアのBboyたちが混ざり合った空気を出せたらということだよね?

3T:そう。KATSUYAは僕とクリエイションをすることになったときに緊張した?

KATSUYA:最初はね。そんなに話もしたことがなかったし。でも3週間一緒にいて、とても面白い人だとわかったので、今はまったく緊張はない。

3T:最初の1週間はみんな緊張していたしね。でも、リハーサルを重ねるうちにお互いのことがわかってきました。日本に来てみんなでパーティをしたとき、僕は知りたいことがたくさんあったから簡単な英語でだけど、ダンス以外に将来に対する悩みも語り合いました。お互いを信頼していろいろな話ができたことがうれしかったし、だから今回の作品は、今のメンバーから誰かが一人でも欠けたら絶対に成立しないものになったと思います。

インタビュー中 3T氏とKATUSYA氏の写真