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北澤潤――日本でのアートプロジェクト 10年の実践から、インドネシア、その先へ

Interview / Asia Hundreds

葛藤を乗り越える方法としてのアート

谷地田:震災1か月後には、もう福島を訪れたそうですね。

北澤:はい。4月7日でした。行った理由を言語化しようとしても、当時と今の感覚がだいぶ変わってきていると思うので難しいのですが、これまで、地域に関わって活動してきた自分が「地域のかたちをなくしてしまった地域」を目の当たりにしたときに何ができるのかずっと考えていました。もちろんそこには自分のエゴもあるのですが、無力感に浸ってすべて自己否定していても意味がない。だから、いくべきかどうかの答えもないまま、いてもたってもいられず被災地に向かいました。

アジアハンドレッズのインタビューに答える北澤潤氏の写真

北澤:ボランティアセンターの情報を頼りにしながら、宮城と福島の沿岸部を移動していたとき、たどり着いたのが福島県の新地町。そこで《リビングルーム》を徳島でやったときに出会った友人と再会して、そのまま新地町に残ることになりました。新地町は人口8000人ほどの町で、山間部、平地、沿岸部のバランスがとれたとてもいい場所です。津波で沿岸部に大きな被害を受けたのと同時に、福島第一原発から50kmの距離にあり、漁業への影響など放射能の問題も抱えていました。また、さほど大きくない町だからか他の被災したエリアに比べると報道がされにくい情報の谷間のようなところでもありました。

谷地田:《マイタウンマーケット》は、震災ボランティア活動がきっかけとなっていたんですね。

北澤:そうですね。最初はひとりのボランティアとして、のちにボランティアセンターのスタッフとしても関わりながら、活動が終わったあとの夕方に避難所にいって、泥がついてしまった病院のカルテを洗ったりもしていました。しばらくして避難所のなかで「絨毯を編む」ということをはじめました。

プロジェクト『マイタウンマーケット』で行われた絨毯を編んでいる写真

谷地田:なぜそのようなアイディアにたどり着いたのでしょうか?

北澤:作家活動をしてきた人であれば震災時に「自分がやってきたことって何なのか」という戸惑いや葛藤を持ったと思うんです。でも、僕は新地町で様々な状況や人びとと出会い対話していくことでその問いから抜けられた気がしました。というか、どうしても「作家としての葛藤」よりも「現場の葛藤」の方が勝るといいますか。そのくらいすさまじい状況でした。いまここの現状をしっかりと見つめた上で、むしろその状況に対して自分にやれることがあると思えたら、それをやるべきというか。基本的に、現場主義者なんだと思います。
現場の葛藤というのは例えば、一人ひとりを記号的な「被災者」として大雑把にくくるような行為や見方に対しての疑問です。炊き出しや救援物資、報道ももちろん必要なのですが、その行為自体がときに被災者の「被災者度」みたいなものを強めてしまうことがある。それが見えない圧力になって、人々を萎縮させてしまっているかもしれないと感じていました。救われる一方で被災者と括られることで息苦しくもなってしまうのではないか、という葛藤。そんなときに始めたのが、絨毯を編む活動でした。

アジアハンドレッズのインタビューに答える北澤潤氏の写真

谷地田:葛藤を受け入れ、乗り越えるための手段として始まった?

北澤:避難所って、例えば「炊き出しする人=支援者」と「受け取る人=被災者」といった関係性が、常に交わされている空間です。そのときに僕が「絨毯を持ち込んで、編んでいたい」と言ったのは、誰かのためにやるという振る舞いだけではなく、何かをひたすらやっている人がいる状況も必要だと思ったからです。その先に関係性を超えて「共につくる」ことも可能になるんじゃないかと。もちろん、多くの人が過酷な環境で生活をしているなかでそんなある種無意味なことを始めるのはとてつもなく怖かったです。でも、避難所を運営する方のおひとりが「そういうのが必要なのよね」と言ってくださった。それは、自分にとってとても大きかったですね。

絨毯を編み始めて最初に近寄ってきたのは、沿岸部に住んでいた漁師さん一家の子どもでした。お母さんの足にしがみついて、涙をうかべながら「(私も)編みたい」と言って、ずっと眺めていた。数日後にはお姉ちゃんと一緒に編むようになって、しばらくすると3~4畳くらいの大きさにまでなった。すると、他の子たちがやってきて自由に遊ぶようになったんですね。そこではじめて、絨毯を町に見立てて「(みんなはここに)何をつくりたい?」と問いかけることができました。ひとりの女の子のアイデアから、実際にやってみたのが喫茶店です。と言っても、家庭科室にあるものやインスタントコーヒーを出すくらいのごく簡単なもので2日間だけでしたけど。それでも子供たちの親や大人たちが、寝泊りしていた体育館から絨毯のまわりにたくさんやってきて、大盛況でした。

プロジェクト『マイタウンマーケット』絨毯を編む様子の写真

谷地田:そもそも布を編むアイデアはどこから来たのですか?

北澤:それは、やはり地域に入っていって、オルタナティブな場づくりを試みてきた経験とつながっています。何もないところに場が立ち上がるのではなく、何かしらのベースは必要で、それまでは、それが平らな船だったり、空き店舗だったりしたわけですが、あのときはもっとシンプルに敷物になった。「編む」というプロセスは、布を刻んで、帯にして、編んで、という簡単なものですし、何よりも誰でも参加できるのがよかったと思います。
その後、避難所から仮設住宅に生活が移り、布の絨毯からプラスチックバンドで編むゴザへと変わり、災害対策本部やボランティアセンターと話して、新地町にきたボランティアが仮設住宅でゴザを編むという状況も生まれていきました。徐々に出来上がったゴザの上に「手づくりの町」をつくる《マイタウンマーケット》というかたちになり、2014年まで続きました。

プロジェクト『マイタウンマーケット』仮設住宅でゴザを編んでいる様子の写真
《マイタウンマーケット》/Photo: Yuji Ito