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北澤潤――日本でのアートプロジェクト 10年の実践から、インドネシア、その先へ

Interview / Asia Hundreds

健康的なプロジェクトの生み出し方・在り方とは?

谷地田:北澤さんは、いろいろな地域に入っていく活動をしてきましたが、震災後にはネパールでもプロジェクトを展開しています。それは大きなチャレンジだったのではないでしょうか?

北澤:ネパールに行ったのは、2011年の8月。僕自身、日本でやって来たことが海外ではどう変化するかが気になって、自分で資金を集めてプロジェクトを始めました。

谷地田:ブログでは「自分が持ってた概念が全然通じなかった」と書いてらっしゃいました。

北澤:通じなかったです。ネパールで《リビングルーム》をやると決めて、資金は用意できたものの、開催場所は現地に行って見つけるしかなかったので、実行できる保証もまったくない。最初の1週間はカトマンズや周辺の街を巡りました。そのなかで、カトマンズからバスで1時間半かかるサクーという町に行ったのですが、山々に囲まれた盆地にある町で、そこで生まれ育った人にとっては「ここだけが世界」と感じるんじゃないかと思えるような地域でした。ある意味日本の団地に近い印象をもちました。そこでサクーの町長に直談判して、町が建設した建物を1か月間の契約で借りることになったんです。

ネパールで行った『リビングルーム』の様子の写真1
ネパールでの《リビングルーム》/Photo: Yuji Ito

谷地田:そこに家具を集めた?

北澤:そこからが問題でした。サクーでは、みんな大事に道具を使うので要らない家具がないんです。空き店舗にしても、もし空きがでても商売をしたい人はたくさんいるのですぐに埋まってしまう。モノも空き店舗もたくさんある日本とは前提がかけ離れていました。とにかくあまりにも物品がないので、現地の人たちが傘として使っている葉っぱなんかを「あれは日用品じゃないか」と言って持ってきたり、日本では扱わないことにしていた消耗品を集め始めたりもしました。これまでの《リビングルーム》の固定観念をほどくようにしてプロジェクトを進めていかざるをえませんでしたね。
ですが、ネパール特有の面白さ、土地性みたいなものともたくさん出会えました。町中の子どもたちがヒンドゥー教の神話にならい、悪魔や神様に変身し、音楽を演奏しながら練り歩く祭りとか、あるいはカーストとか。現地で《リビングルーム》をやっていちばん関わりを持ったのが、いわゆる不可触民と括られてきた人びとで、特に日中学校に行ってない子どもたちでした。彼らは今なお同じ町に暮らす大人たちから差別的な扱いを受けることもあるのですが、「あのプロジェクトの手伝いをしているらしい」という噂が耳に入ると、大人たちが彼らを褒めるようになったんです。

ネパールで行った『リビングルーム』の様子の写真2
Photo: Yuji Ito

谷地田:それは大きな変化ですね。

北澤:僕の解釈なんですけど、あの子どもたちは《リビングルーム》を通じて、普段の自分から別の存在に変身したように感じました。それこそサクーの祭りで神や悪魔といった存在を演じるように、プロジェクトを介することで、普段は接触しないような人たちとも対等に渡り合う時間を過ごしているんじゃないかって。その経験は、プロジェクトに対する新しい視点を僕に与えてくれたように思います。自分の興味の奥深くには、人間が持っている、ある種の「信仰性」があるのかもしれない。サクーの町自体が1年のうち半分くらいは何らかの祭りをやっているネワール族の町で、彼らは常に何か別の存在に変われるチャンスを持っている。アートプロジェクトが、祭事や儀礼といった行いとの共通点をもっていることに気づきました。

谷地田:ネパールの後、インドネシアでも活動していますね。

アジアハンドレッズのインタビューをする谷地田未緒氏の写真

北澤:はい。インドネシアに行ったのは、ネパールでの気づきをきっかけにした博士論文を書いたあとでした。日本でやってきたプロジェクトが第三者によって言語化されるとき、ソーシャリー・エンゲージド・アートと比較されたり、もしくはソーシャルデザインやコミュニティデザインの視点で語られることがよくあったんですが、どうも落ち着かなくて。そこでサクーで感じた、信仰や人類学的な視点を土台に、儀礼論や日本の祭りの概念を軸にした論文を書いたんです。そうすることで、アートの文脈ともソーシャルな視点とも違う切り口で、地域の日常の中で時間をかけて関わるアートの意味をとらえることができる気がしたんです。
結果的に、論文を書いたことで、すごくすっきりしました。でも言葉にすると、その外側が気になり始めるというか。プロジェクトを行うって、そのプロセスに身を置くことで、内在している偶然性に身をさらすみたいなところがあります。客観的に捉え直すことはできたものの、プロジェクトのプロセスと自分の人生のプロセスは簡単に切り離せないことに気づきなおしました。それから考えていたのは、(プロジェクトを)終えることの必然性、そして続けることの必然性についてです。
2014年頃、新たに建てた高台の家に移る人たちが増えて、仮設住宅で続けてきた《マイタウンマーケット》は終わりました。その前後に継続するかどうかを新地町のメンバーと、彼らも高台での暮らしに移行しはじめているなかで1年近く何回も議論した、その結果でした。ちょうどその頃に、他のプロジェクトでも様々な理由で終わりを迎えるタイミングが重なって、同じような議論をする現場が多かった。行き着いた結論というか、自分の中での納得としては、「終わることの必然性が、続けていくことの必然性よりも高ければ、終わりでいいんじゃないか?」でした。

谷地田:なるほど。

北澤:一過性の作品をつくるタイプの作家と、マネージメントやアーカイブなども含め、ある種の責任を負って、プロジェクトを継続的に営んでいくタイプの作家っていうのは全然違う。後者は、今後いっそう言葉にしていかないといけないし、批評されていかなくてはいけないと思います。論文にまとめたことで、そういったアートプロジェクトの意味が自分のなかではっきりしてしまったことや、現場での議論を通して、それまでの一連の活動に僕自身は区切りをつけるべきだと感じました。日本でアートプロジェクトをやってきたその先に何があるのか、改めて僕自身も「アーティストとして自分がやることって何なのか?」を考えないといけないと思い、環境を変えるべくインドネシアに向かったんです。

アジアハンドレッズのインタビューに答える北澤潤氏の写真

谷地田:ネパール同様に、インドネシアも慣れるまでが大変だったのではないでしょうか。短期で訪れるのと、生活の拠点を移すというのではまったく違いますよね。

北澤:人的なネットワークがほとんどないところから始まりましたからね。家の探し方や契約の仕方なども含めて、日本とは生活のルールが全然違うので苦労しました。インドネシア語を勉強しながら、けっこう自力で乗り越えていく感じでしたね。

谷地田:生活が落ち着いて、意思疎通ができるようになるまで、どのぐらいかかりましたか?

北澤:2~3か月かかりましたね。居住していた南ジャカルタがわりと落ち着いたエリアで、近所の人たちが仲良くしてくれて助かりました。門番の家族から言葉を学んだり、周囲にある路上屋台に連れて行ってもらったり。すごく狭い生活圏で暮らしながらいろいろ知っていったという感じです。
そういった暮らしのなかで「健康的なプロジェクトの生み出し方と、健康的な在り方っていったい何なのか?」を、あらためて見出したいと思っていました。日本では毎日のようにプロジェクトの現場をまわって移動し続けるような生活でしたし、どこか地域でプロジェクトをつくる方程式みたいなものができてしまっていました。自分の常識を揺さぶりつつ、あらためてプロジェクトと自分の身体を引き寄せるようなやり方を模索したくて。インドネシアであればそれが可能だろうと思って拠点を移したので、すごくデリケートに活動を進めたかったんです。自分が「暮らしてる」実感みたいなものを、大切にしてゆっくりやっていきたいと思っていました。

谷地田:実際のところ、日本で地域や人にかかわる作品づくりのシステムは定型化してきているように感じます。プロジェクトのオファーがあれば、その場所に行って、下見をして、その土地のキーになる人と会って、場所を見つけて、インスパイアされて、作品をつくって、また次の場所に行く。多くのプロジェクトに関わるアーティストは、そうした「仕込み」の段階の活動が常に3本ぐらい同時進行しているという人もいます。

北澤:そうですね。

谷地田:北澤さんも、ジャカルタだけではなくスラバヤやバリ島にも足をのばしたとか?

北澤:インドネシアは言語や習慣も島ごと地域ごとに違って、すごく多様性のある国なので、いろんなものを見ておきたいと思いました。特にバリの文化は、すごく面白かったですね。でも、プロジェクトをやるとしたらジャカルタがいちばん面白いと感じました。僕のなかでプロジェクトを実行に移す基準は、場所から喚起された葛藤があるということです。現在のジャカルタは急速に都市化が進んで、制度もどんどん整っているけれど、まだ屋台や怪しい市場がいたるところにあって、変なところ、暗いところもたくさんある。相反するものがごちゃまぜに存在している様子は、まるで都市全体が葛藤しているようです。ジャカルタで行動に移すのはすごくリスキーだけど、ここならば「次に行ける」感じが持てました。

アジアハンドレッズのインタビューに答える北澤潤氏の写真

谷地田:インドネシアで動いているプロジェクトについて教えてください。

北澤:2017年から取り組んでいるシリーズが「リロカシ(移転)」で、都市開発と立ち退きの問題を抱える地域に関わりながら、プロジェクトをはじめています。
ジャカルタのカンプン・プロという地域には、チリウン川という河川が通っていて、この周りでは洪水がしょっちゅう起こる。川沿いの貧困層の人たちが住みつづけてきた場所が洪水をなくすための開発によって立ち退きとなったのですが、そこには政治や時に宗教の問題も絡みついています。まさに取り壊し中の時期に行くと、川沿いに堤防と道路がつくられはじめていて、その新しい道路の幅にあわせて立ち並ぶ家がまっぷたつに切断されていました。すごい光景でしたが、それよりも内部が丸見えになった自分の家に新たに壁とドアを自分でくっつけて生活をしている人たちがいて驚かされました。一方、完全に取り壊されてしまった家に住んでいた人びとは、すぐ近くに巨大な団地がつくられ、そこに移住していました。そもそもこの川沿いに住むのは合法か?開発のプロセスは適切か?といった社会問題の横で、都市をサバイブする住民たちのたくましさと、移転による住民の分断や葛藤がある。

カンプン・プロの写真

北澤:そこから「開発と立ち退きにまつわる地域をいろいろ回ってみよう」と思いリサーチしました。カンプン・アクアリウムも、同じように開発と移転の問題を抱えている場所です。ここは、もともとオランダ東インド会社(VOC)の本社があったジャカルタ北部のエリアで、オランダの植民地時代にできた建物が現存しています。
海に面するジャカルタ北部は人口流入が激しく、この数年の開発で地価が急騰し、高層ビルや高級マンションがたくさん建てられています。ですから、チリウン川のカンプン・プロの問題と「移転」という意味では一緒なんですが、じつは問題の形が違う。つまり、洪水を防ぐというような公的な目的がありません。
カンプン・アクアリウムでは、2016年4月に一斉立ち退きが起きました。そして、立ち退きに遭った人たちは、代わりに3つの団地があてがわれたんですが、新たな住居からカンプン・アクアリウム近くの仕事場に通勤するためには大渋滞のなか1時間も2時間もかかってしまいます。彼らにとっては生活と仕事の場がそんなに離れていたら、暮らしが成り立ちません。まず、そういう問題がありますが、その一方で、団地に行くことを拒否した人たち、あるいは一度は団地に移ったけれど戻ってきた人たちがカンプン・アクアリウムには多くいます。瓦礫や木材を売って、それで簡易的な家をつくって住みながら抵抗しています。

カンプン・アクアリウムの写真
カンプン・アクアリウム

谷地田:その二つの場所との出会いがプロジェクトの始まりとなったのですね。

北澤:国際交流基金のアジア・フェロー期間中にプロジェクトをはじめることはかなわなかったんですが、リサーチの延長線に実践としてのプロジェクトを位置付けています。プロジェクトを実行するためにリサーチをするのではなくて、最初は小さな暮らしから始めて、その半径を100m、1km、10kmと大きくしていきながら、そこにある問題を考えていく。だから今は、プロジェクトと自分の生活がちゃんとつながっている感覚が強くあります。

谷地田:アジア・フェローをリサーチ期間としたのは、やはり現地を知るのに時間が必要だったからでしょうか?

北澤:まだまだ足りないですね。インドネシアをしっかり見るのは1年では足りないです。ですが、自分のなかの「正しさ」みたいなものを確かめる時間になったと思います。この感じを忘れなければ「健康的」な活動ができるし、何が起きても大丈夫でしょう。これまで持っていた「プロジェクトとは?」「アーティストとは?」といった疑問に固執する感覚がほどけていく感触があります。

谷地田:プロジェクトの詳細をうかがえますか?

北澤:プロジェクトの名前は《ロンバ・ルマ・イデアル》といいます。「ロンバ」っていうのは、インドネシア語で「コンテスト」という意味。「ルマ」は「家」で、「イデアル」は「理想の」。つまり「理想の家のコンテスト」。これを8月17日の独立記念日に行いました。
インドネシアではロンバ(コンテスト)がとても盛んなんですよ。例えば、歌唱大会、鳥の鳴き声コンテスト、コーヒーのバリスタ大会も全部ロンバと呼ばれていて、日常的によく使われている言葉です。
カンプン・アクアリウムの「カンプン」とは、都市のなかの路地村というか下町で、自治会みたいな規模のコミュニティのことです。独立記念日には、自治会ごとに市民運動会が開かれます。そのなかでは、日本のパン食い競争みたいな「せんべい早食い大会」とか、チョコでコーティングされたフルーツを舐めて、なかに埋め込まれたコインを取り出す競争などが行われます。いちばん有名なのは、「パンジャッ・ピナン」というもので、何メートルもある高い竹を突き立てて、その上に自転車や鍋をぶら下げて、それをできるだけ早く登って取る競技です。要するに、独立記念日に、たくさんの国民がくだらないことに身を投じるんです(笑)。だから、本当に「日常から離れる感じ」があります。
その祝祭感あふれる日に、カンプン・アクアリウムと開発や移転といった切実な問題をむすびつけながら、そもそも「理想の家」とは何なのか、という問いを社会に投げかけたいと思いました。政治や社会的な問題に、ロンバというものを結びつけることで、別の関わり方・アプローチを発明していくということをやりたかった。「理想の家」と言っても、大きくてしっかりした家を建てるという意味ではなくて、いかにも急ごしらえなカンプン・アクアリウム流の方法で、3日ぐらいで即興で小屋を建ててしまう。それをいくつかのチームで競う。

プロジェクト『ロンバ・ルマ・イデアル』の様子の写真1

谷地田:チームは全部でいくつでしたか?

北澤:7チームです。だいたい3週間前ぐらいから準備を始めて、最終的に7つの家が並びました。そして、それぞれのチームがプレゼンテーションして、200~300人の地元の人や、噂を聞きつけてやって来た近隣の人たちが投票をする。投票のシステムにしたのも、投票によってあらゆることが変わっていく現実社会に対するちょっとした皮肉を含めていて。それも込みで、みんなすごい幸せそうに投票していましたね。そして最後は、順位を発表して賞品を贈呈しました。

プロジェクト『ロンバ・ルマ・イデアル』の様子の写真2
プロジェクト『ロンバ・ルマ・イデアル』の様子の写真3

谷地田:事前にチームを集めるのではなく、自発的に集まってきた人たちでロンバをつくっていったと聞きました。

北澤:はい。ただ、プロセスはかなり難しかったです。「どんなロンバにしようか?」って話をすると、やっぱりせんべい早食い大会のような、既存のロンバをなぞる議論、日常的な会話に終始してしまいます。でも、僕がやりたいのは、「ロンバ」と言っていても、じつは別のものなんです。既存の状況や常識から飛躍するものでないといけない。そこで地域の人に対してプレゼンテーションする機会をつくって、インドネシア語でなんとか《リビングルーム》や《マイタウンマーケット》について話しました。この孤軍奮闘の時期は本当に大変でした。カンプン・アクアリウムには、医療関係者、教育関係者、建築家、ジャーナリストなど、いろんな分野の人が支援のためにやって来るので、僕もその一人だと思われていたからです。でも、僕は「ヘルプ」ではなく「コラボレーション」をするために来たんだってことをまず伝えたかった。
立ち退きを迫られてきた人たちと場所に対して「理想の家」をつくろうと訴えることには、すごく微妙な響きが含まれます。社会に対するある種の批判が、住民に対する皮肉にすり変わってしまう危険性がある。急場凌ぎの家に住んでいるところに「理想の家をつくろう」と提案したって、そもそもそれができないから大変なのに、って思う人は当然いるはずですから。プレゼンでは綺麗や整っているから理想とか、高級だから理想というわけではない、と伝えました。
いまのジャカルタでは、異なる価値観が混沌としながら同居していると感じていて、それがスリリングだけど面白いと僕は思っています。でも都市開発や経済発展によって「ひとつの理想」みたいなものが出来上がりはじめてもいる。そこに警鐘を鳴らすためにも、不安定な社会状況のなかで、あえて「理想って何なのか」を一緒に考え続けていくことに意味があるんです。プレゼンを経て少しずつ、みんなが僕自身やプロジェクトについて理解していってくれたのだと思います。

アジアハンドレッズのインタビュー中の北澤潤氏と谷地田未緒氏の写真

常に変容するリアリティー

谷地田:今回のように暮らすなかでのリサーチから自然にプロジェクトが生まれてくることを北澤さんは「健康的な感じ」と表現しているんですね。依頼されて生み出すものではなく、自ずとつながっていって、経験や成果が蓄積されていく。インドネシアでのプロジェクトはようやく動き始めた、という感じでしょうか?

北澤:そうですね。言葉もわからない場所で、誰に呼ばれたわけでもないなかで活動するのは困難ですが、ようやくリアリティーを持てるようになりました。このリアリティーは、もちろん2016年に1年間のインドネシアに居住した経験、時間のなかから生まれてきたものですが、しかしリアリティーって常に変容していきます。だからベースとしているのは「自分の切実さを保つ」ということ。
日本とインドネシアの間を行き来していると、まったく言葉にできないような感覚や違和感が生まれてきます。そして、それは単に文化の違いとか、あるいはこちらの文化のほうが優れていて、それをもう一方に持ってくれば解決する、といったことでもない。文化は新しいものに出会うチャンスではあるけれど、同時に壁にもなってしまうものでもあります。逆に何かを見えなくするってこともありえる。だからこそ、その地域の状況を踏まえながらも文化の違いを超えたことができないか、と思うんです。
インドネシアにいても、日本にいても、わりと別なポジションからの視点を持っているようにしたい。不安はありますけど、常に、ある程度浮いていたい、というか。日本だと「ちゃんと毎日仕事に行く」のが当たり前なのに、インドネシアでは「毎日働くなよ。ゆっくりコーヒーでも飲めよ」なんて言われますからね。

アジアハンドレッズのインタビューをする谷地田未緒氏の写真
アジアハンドレッズのインタビューに答える北澤潤氏の写真

谷地田:北澤さんの活動は日本から飛び出して発展していますが、地域に関わるということが、すなわちインドネシアの人と同化していくことを意味するわけではないということですね。

北澤:東京に対する違和感から一連のプロジェクトがスタートしたところがあるんですが、でもインドネシアに行ってみて思ったのは、もしもインドネシアに最初からいたらアーティストになっていなかったかもしれない、ということです。東京のなかで、見えない抑圧みたいなものに違和感を抱えていたからこそ、作家としての問題意識を持てた。でも、それはインドネシアに来たから見えることなんです。東京で感じる抑圧は、東京のなかだけでは強く意識できません。

谷地田:だとすると、東京の文脈から自分を引き離すことから始まったインドネシアでの経験は、いつの日か北澤さんの意識をもう一度東京・日本に向けるかもしれないですね。もしかすると、それはすでに始まっていることかもしれませんが。

北澤:そういうふうにしていけたらいいと思いますね。だからいまは、個人的に東京をリサーチしています。ジャカルタを見てきたように、「ここはどんな場所なんだろう」って思いながら。散歩するみたいに。

アジアハンドレッズ 北澤潤氏と谷地田未緒氏の写真

【2017年9月11日(月曜日)国際交流基金にて】

[関連リンク]

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インタビュアー:谷地田 未緒(やちた・みお)
東京藝術大学大学院 国際芸術創造研究科 助教。国際文化交流、カルチュラル・ディプロマシー、民間・政府による芸術支援制度、アジアのアートマネジメント教育、東南アジアのコミュニティ・アート等に関心を寄せている。2009年より国際交流基金に勤務。広報部門でウェブマガジンの立ち上げ等に携わった後、2012年から2016年までクアラルンプール赴任。文化事業部長として事務所運営、助成事業のマネジメントを担当しながら、東南アジア初文楽公演、狂言公演、コンテンポラリーダンス公演、伝統音楽のプロジェクトなどを企画。また、東南アジアのコミュニティ・エンゲージド・アート、アジアの舞踏に関する国際会議を共同企画。2016年より現職。国際基督教大学卒業。東京藝術大学大学院修士(文化政策)。

編集:島貫 泰介
写真:佐藤 基