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マティー・ドー――ラオス女性のリアルを描く

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

アイデンティティについて

橋本 彩(以下、橋本):すでにドー監督のインタビューは色々と読ませていただいているのですが、改めてドー監督自身のことについて質問させてください。監督のお母様はラオス人で、お父様はベトナム人ということですが、アメリカでの生活において「ラオス」をどの程度意識する環境にあったのでしょうか。

マティー・ドー(以下、ドー):ラオスを強く意識する環境でしたね。家ではラオス語を話していましたし。でも、食事は必ずしもラオス料理だけ食べていたわけではなく、ベトナム料理も日常的に食べていましたから文化混交という感じでした。それに、両親ともに仏教徒ではなく、父方はカトリック信者でしたし、母はアメリカに移住してからモルモン教徒になっていたので、キリスト教の要素も大きかったですね。それでもバーシーの儀式*1 に参加したりもしていましたし、両親はラオスの話をよくしてくれました。
私自身は自分のことをアメリカで生まれ育ったラオス人だと思っていて、ラオ・アメリカンだとは思っていないのですが、ラオ・アメリカンの人たちは奇妙なくらい排他的な傾向にあります。移住したアメリカにおける自分たちの状況変化に適応するため、もしくは自身の尊厳を保つために強固なアイデンティティが必要だったためだと思いますが、彼らはラオスにおける自分たちの背景を都合よく作り上げ、美化して子どもたちに語り継いでいる部分があると思うのです。時にはラオスを否定的に語る場合さえあります。その点、私の両親はラオスについて悪く言うこともありませんでしたし、美化することもなかったので、私がラオスを桃源郷だと夢想することも、凶暴な過激派が跋扈する危険な場所だと思いこむこともなく、2010年にヴィエンチャンへ移り住んだ時にはすんなり現代のラオスになじむことができました。

*1 結婚や出産、歓迎、送別、新築祝いなどの人生の節目や、快気祈願、厄払いなどの機会にも行われるラオスの伝統的な儀式。

アジア・ハンドレッズのインタビュー中のマティー・ドゥー監督の写真

橋本:家族全員が現在はモルモン教徒ということですが、ラオスの新年祭りなどには参加していたのですか。

ドー:そうですね。ラオスの新年祭りやその他のイベントにも参加していましたよ。アメリカではモン族とラオ族の間に根強い民族差別意識が存在しているため、互いが互いに全く別の存在だと捉えています。そのため、ラオ族やモン族の新年祭りなどの場ではギャング抗争が起こることもありました。そうしたこともあり、私の父は私が友人とそうした祭りに私たちだけで行くことを決して許さなかったですね。参加する時は必ず家族と一緒でした。こうした私の経験に関連して、私がラオスへ移ってから初めて犯した文化的な誤解からくる発言は、ラオスのお札、1,000キープ札を巡るものです。
ラオスの1,000キープ札にはラオ族、モン族、カム族の女性3人が描かれているのですが、私はそれを見てラオス人の同僚たちに「モン族とカム族の女性が描かれてるわ。おかしいわね。これってラオスのお札なのにラオス人じゃない彼女たちが描かれているなんて」と言ってしまったのです。周りのラオス人たちは「どういう意味?彼女たちはもちろんラオス人よ」と奇異な目で私を見ました。私は本当に恥ずかしかったですね。
ラオスでは、彼らはすでにお互いを受け入れ、ラオスは多民族国家であると当然のように認識しているのに対し、アメリカにおいては、依然としてある種の民族差別意識を持つラオ・アメリカンがいるのだということを思い知ったからです。でも、それと同時にとても嬉しかったですね。民族の違いはあれど私たちは同じラオス国民で、ラオスにおける民族多様性が私たちを更に特別なものにしてくれているという事実を喜ぶべきだと思ったからです。ラオ・アメリカンの人たちも同じように思える日が来ることを願っています。

少数民族の描写

橋本:その問題と少し関わると思うのですが、今年の3月にラオスの映画製作に関わる会議が開催されたと聞きました。その中で、少数民族に関わる事も議論されたと聞きましたが。

アジア・ハンドレッズのインタビュー中の橋本氏の写真

ドー:ラオスの映画製作に関する新しい法律を制定する重要な会議だったので、映画製作に関わる多くの人たちが出席していました。会議では、映画局が「これが新しい法律です」と発表する場ではなく、どのような法律にしていくべきかを話し合う非常に開かれた会議でした。少数民族の描写に関しては、これまでの映画におけるモン族や少数民族に関する描写が正確ではないことが多々見られたため、映画局は民族を描く際の法律を制定したかったようです。
映画製作者たちは、時に知らず知らずのうちに彼らを侮辱するような内容を映画の中で描いてしまう事もありましたし、そもそも互いに互いの言語を話せないということもよくあります。私たちが各民族の状況を正確に描かなかったり、間違った方向で描いたりしたら、民族間の良好な関係を後退させることにもなりかねません。
私は映画の中でどう人々を描くかについては、とても気を配っているのですが、正しく描くことと、人物のキャラクターとして描くこととの間にはある種の境界があって、その境界をどう描くかということに政府は敏感になっているのです。フィクション、エンターテインメント、ノンフィクションのバランスを保ちながら、少数民族を侮辱することなく、誠実にどう正しく描くかということについて判断を下すにはまだ時間がかかると思います。

映画の壁

橋本:ラオスで映画製作に携わり始めた時に感じた「壁」があるとすれば、どのような事でしたか。検閲や資金、機材はもちろんのこと、その他に感じた大きな壁はありましたか。

ドー:検閲は大きな障害ではありませんでした。映画局が私の作品を却下したら、彼らのところへ行って何が問題だったのか、どこを変えればいいのかを質問しましたね。彼らはとてもオープンで、どのように変えれば良いかを教えてくれることもあったし、時には大幅に変更が必要だから変更は難しいのではないかと言われたりもしましたが、私は「大丈夫、大丈夫。変更できます」と言って脚本家の夫と共に内容を調整してきました。

「壁」と言えば、私が映画を作ることを快く思っていない白人の人たちからの脅迫めいた発言がありました。私が本物ではないというのです。本当のラオス人ではない人が、なぜラオス人についての映画を作ることができるのかとか、今はあなたがラオス初の女性監督でラオス映画を発信すればいいけど、今後、映画を作る本当のラオス女性が出てきたら、あなたはその座を彼女にゆずるべきだとか。私は「じゃあ探してきなさいよ。誰も見つけられないなら、私自身が先になるわよ」という態度でいましたけどね。多くの白人が私が本物じゃないと言ったり、ラオス映画を作る資格がないとか言うけれど、そうだとしたら、私は何をする資格ならあるというのでしょうか。私はアメリカ人にもなれないし、ベトナム人にもなれない、ラオス人にもなれない。私は何にもなれないのでしょうか。それはとても辛いことですよ。それに、私よりも外国人である彼らがラオス映画を作るに値する人間を決める権利を持っていると考えること自体がおかしなことだと思います。

橋本:ラオスに長年住んでいる外国人の人たちが、自分たちが一番よくラオスを知っているかのように振る舞うことがあるのは想像できます。

ドー:そうそう。彼らはまるでラオス文化の守護神であるかのように振る舞いますよね。それってちょっと皮肉なことにも思えますし、とても腹立たしくも感じます。

アジア・ハンドレッズのインタビュー中のマティー・ドゥー監督の写真

ラオス女性を描く

橋本:監督のデビュー作『Chanthaly』に関する質問に移りますが、この作品で監督はどういったラオス社会の問題を取り上げようと思っていたのでしょうか。

ドー:『Chanthaly』では家族の変化や現代ラオス家庭における女性の変化について描きました。主役のチャンタリーには家父長制の様々な要素を反映しています。私がとても好きなのは、従姉妹のビーが非常に伝統的なやり方で礼儀正しくあろうとするラオス女性であると同時に、自分の意志をはっきり示す女性でもあるところです。知ってのとおり、ラオス人女性は弱々しい存在であるかのように表面的には振る舞うけれども、家の中では彼女たちがかなりの権限を持っていたりしますよね。私はそういったラオスの内情をビーを通してラオス映画の中であからさまな感じではなく描きたかったのです。

映画『Chanthaly』のポスター画像
「Chanthaly」2012

橋本:2013年に『Chanthaly』を発表後、2014年3月にはFacebookに『Dearest Sister』のページを立ち上げていますが、同年5月のカンヌ映画祭でのワークショップ「La Fabrique des Cinemas du Monde 2014*2 に参加する前に脚本は終わっていたのでしょうか。

*2 カンヌ映画祭期間にアンティスチュ・フランセが毎年主催しているワークショップ。デビュー作もしくは第2作目を制作中の新興国出身の監督を対象としており、選出された10名ほどがプロの国際的な映画製作者になるための知識や技術等を習得する場になっている。

ドー:いえ、全然。とても素晴らしい機会になるからと言われて私たちは応募するように言われたのだけれど、その頃はまさに「あなたは本当のラオス人じゃないのになぜ応募できるの」といった白人からの声も多くて大変な時期だった。それでも、新しい映画作品の概略を提出したらありがたいことに選出され、今度は突然2週間で脚本を仕上げなければならなくなって、夫は2週間で最初の脚本案を書いたんですよ。最初の脚本案は問題だらけだったけれど、このワークショップの良かったところは、映画のためのプロデューサーを探したり、プロジェクトや脚本を洗練させていく手伝いをしてくれるものだったことですね。撮影に入る脚本は全く異なる新しいものになっていました。

映画『Dearest Sister』のタイトル画像
「Dearest Sister」2016