ASIA center | JAPAN FOUNDATION

国際交流基金アジアセンターは、アジアの人々の間に共感や
共生の心を育むため、様々な分野で文化交流事業を実施しています。

MENU

「もう感じない」を感じる――『プラータナー:憑依のポートレート』公募レビュー

Review / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

舞台上で揺れる「あなた」の倦怠に侵されていく。生きるために必要だったはずが、自分を傷つけおかしくしていく、汚染された水のような欲望と言葉。舞台上を漂う無為の身体には倦怠だけが降り積もり、ときおり欲望に浸って他者の身体をもののように扱う。舞台上の「あなた」の言葉と身体が重なって、観客であるわたしの輪郭がほつれてかすんでいく。――休憩を挟む二部構成の『プラータナー:憑依のポートレート』(以降『プラータナー』と表記する)の4時間に及ぶ上演を体験した後、わたしの身体にはこうした感覚がしみとおっていた。何より傷つけられたのは、自分の言葉と身体も、この観劇の前からすでにそうなっていたと体感したことだ。日々、東京の満員電車を何度も潜り抜けて、周囲にひしめくのが人格のある生きた人間であることへの感覚を擦り減らし、無感覚を振り付けられている。この無感覚から、無関心が頭をもたげる。わたしは自分のことで精いっぱい。他者のこと、ましてや他者と自分のつながり方を模索する営みである政治など考える余裕はない。傍観者を決め込んでわが道を行くわたしの周りを、電車の窓を流れる風景のように色とりどりの奇怪な出来事が通り過ぎていく。だが、『プラータナー』の上演がわたしに提示したのは、立ち止まって考えざるを得ない圧倒的な他者の存在だった。

本作はタイの芸術家カオシン(タイ語で憑依の意)の物語だ。舞台は、2016年の真夜中、プールサイドに彼の恋人の少年ウェーラー・ワーリー(タイ語で「時の流れ」・「水のせせらぎ」の意)が腰かけている風景の語りから始まる。バイセクシャルの主人公カオシンは、常に「あなた」という二人称で表される。彼が無垢な芸術へのあこがれから画家を目指した17歳だった1992年から、激動する不安定なタイ社会を背景に、無気力な生活の中で欲望に溺れ、無感覚になってしまった41歳の2016年まで、基本的には時系列で進む時間に、2016年のエピソードが差しはさまれる形で舞台は展開する。カオシンを語る言葉は、舞台上の様々なタイ人の演者たちに憑依していく。女性5名、男性6名の総勢11名の演者達は言葉を時に物語として語り、時に台詞として演じる。そして剝き出しの舞台袖に控えた7名のクリエイティブチームは、美術・照明・音響・衣裳の変化を直接舞台上で行い、上演に関わる。

舞台に最初に響くのはオレンジ色のトラフィックバリアの中でせせらぐ水音だ。本作には様々な水が湛えられている。劇中に現れるカオシンの男性の恋人二人の名前はどちらもタイ語で水を意味する。そして彼の荒廃していく精神と身体を反映するかのように、冒頭のプールに満たされた清潔な水から、末尾のチャオプラヤー川の濁流へと、ワーリーの名前そのままに物語の流れる時の中で水はさざめき、汚れ濁っていく。水音に続き、劇中で主にワーリーを演じる女性的な柔らかい雰囲気の青年ウィットウィシット・ヒランウォンクンが発語するせせらぎのような響きのタイ語の言葉たちが、耳に柔らかく絡みつく。声の穏やかな響きと裏腹に、語られる内容は身体の官能的な描写だ。彼はプールサイドに佇むワーリーの姿とそれに重なる17歳のカオシンの姿を語り、続けて17歳のカオシンを演じる。それに応じて、どこか悲しげな優しい目つきをした女性パーウィニー・サマッカブットがカオシンに絵を教えた美術教師を演じる。繰り返される「見つめる人間と、見つめられる人間」という言葉。語りの声は、客席ではなく舞台上の他の演者に向けられている。島貫泰介は本作の声について以下のように分析する。

「俳優は、舞台上のさまざまな場所に陣取った10数名の俳優・スタッフに向かって個別に発話するのではなく、まるで雲や息を口から吐いて空間に漂わせるような曖昧さを常に抱えながら喋り続ける。日本人にとっては耳慣れないタイ語の響きが漠然とした印象を強めるのかもしれないが、小型マイクや移動式のスピーカーに切り替えて成されることもある発話は、そのセリフを発している主体=すなわち「私」の所在を、しばしば観客から見失わせる」。*1

さらに注目すべきは、その声を聞く客体の身体の状態である。語り手以外の演者は声が向けられた方向にいるが、語り手が言葉に意識を集中しているのとは対照的に、彼・彼女らの身体と意識はまるで自室にいるかのように緩み散漫で、声を聞いているのかは不明瞭だ。さらに上演中任意のタイミングで演者がビールを飲むという演出もなされているため、舞台上の身体はアルコールによっても弛緩していく。水中を漂っているかのようなこの身体の緩みは、4時間という上演時間をかけて、徐々に観客にも伝播していく。

役も輪郭が曖昧だ。声を聞く側の演者たちは大きな脚立、冷蔵庫、トラフィックバリアが集まってできた見立ての「町」(この「町」は場面に応じて形を変え、上演中何度も様々な位置に移動する)に密集しており、そこに声をかける語り手は次々に移り変わっていく。一方で、語りでなく演技で場面が展開する際には、役を演じる演者はその場面ごとに固定されている。こうして場面ごとに演じられるエピソードに観客は感情移入しようとするが、役とそれを演じる演者が一貫せず移り変わり続けるため、それは不可能になる。主人公カオシンは男性だが、性別を超えて女性によっても演じられる。男性は女性的な、女性は男性的な雰囲気の演者が多いため、男女の性差もどこか曖昧だ。しかし登場人物たちのセックスの描写だけは、書かれた通りの性別で演じられる。

「プラータナー」とはタイ語で「欲望」を意味する。『プラータナー』の上演は、進むにつれて性的なイメージが横溢していく。第一部では、舞台上の声も動きもほぼ穏やかで淡々としているが、芸術大学に入学したカオシンが恋人ラックチャオと「狂ったように交わった」場面以降、激しい動きが生まれていく。音楽が流れる中、ポラロイドカメラを手にして、contact Gonzoの塚原悠也に振り付けられた独特の動きで二人は絡み合う。寝転がった状態でカメラを奪い合ってお互いを撮り合い、相手の身体の上に乗ろうとして組み合い、音を立てて手で身体を叩き合う。実際のセックスにも似た、肉がぶつかり合う生々しい音で露になるのは肉体の質感である。ここに現れているのは、激しい接触で文字通りにも比喩的にも相手の上位に立とうとする動き、さらに言えば相手の身体をもののように扱って自分の意のままにしようとする動きと、写真として相手を「見つめられる人間」にしようとする支配への欲望だ。

支配への欲望は、多用される映像によっても示される。「その頃のあなたには、野蛮が取り憑いていた」という語りから始まる第二部では、スクリプターとして映画製作現場で働きはじめ、コカインを使うようになったカオシンと新しい恋人たち(若い女性ファー、水の意の名前の少年ナーム)の3Pセックスがさらに激しい接触の振付で表現される。這いつくばって絡み合う身体たちは、カオシン役の演者が持っているカメラによって、舞台奥全体に広がったスクリーンに大写しになる。劇中カオシンはそれぞれ2人の女性と男性の恋人と出会い、別れるが、それぞれの場面でしばしば相手の写真や映像が背後のスクリーンに映し出される。一方的に「見つめる人間」として相手を支配しようとするカオシンの欲望はこうして表現される。映像は「見つめる人間」と「見つめられる人間」の間を隔て、見つめられる側の身体の息遣いを画面の向こう側に押し込め、同じ空間に身体があるからこそ生まれる相手の身体への共感を失わせる。身体の境界線が際立つ激しい接触と時空間を隔てる映像の両方によって、カオシンという支配する側の「見つめる人間」と彼に支配される「見つめられる人間」は、同じ空間にいるにも関わらず、はっきりと区切られていることが示される。いかにも中年男性といった外見でヒゲを生やしたティーラワット・ムンウィライ演じる中年のカオシンがワーリーにセルフフェラを強要するシーンでは、その周りで語り手がデモについて語り、塚原を交えた無数の演者が身体を密着させて寄り集まり、靴を投げ上げたり、それで互いの身体を叩いたりし合う奇妙でグロテスクな塊を形作る。それはカオシンの内面の混沌のようにも、クーデターが頻発するタイ社会で絶えない暴力の象徴のようにも見える。目の前の相手の身体の状態への無関心と無感覚が、「あなた」とわたしの身体にゆっくりと絡みつく。

「見つめる人間と、見つめられる人間」の区別は、演者と観客の関係についても当てはまる。作品全体で、舞台上も客席も同じように照明で照らされ、劇場全体が同じ空間であるかのように感じられる一方、演者たちの声の方向、身体の意識はほとんどの場合に舞台上で完結しており、ほぼ観客に向けられていない。さらに舞台と客席の間にはビニールテープが張られ、防波堤のように区切られている。このビニールテープは第二幕の後半で塚原によって舞台空間を斜めに分かつ形に動かされる。その区切られた空間の客席寄りの照明に照らされた上手側にいるのは、農民を見下しポピュリストの権力者を上機嫌で罵る軽やかな身のこなしの男性演者タナポン・アッカワタンユーと、クーデターによるポピュリスト政権打倒を望むエリート支配層の欲望が「麻痺した国家の身体」に満ちていることを語るムンウィライだ。一方、舞台奥寄りのほの暗い下手側では、無数の演者が輪になって一人を足蹴にしてリンチしている。その映像がカメラで撮られ背後のスクリーンに映し出される。ここで典型的に示されるのみならず、物語の所々で差し挟まれて語られる、権力者が入れ代わり立ち代わり暴力を行使して国民を支配するタイの政治のありようは、支配に憑かれたカオシンの欲望と重なり合うものだ。原作小説『プラータナー』の作者ウティット・ヘーマムーンは、作品のテーマについてこう語っている。

社会の人々を統制する規律や習慣が、人々を脅しつけ強制するような身振りや姿勢をとるということは幾度もありました。それは、性行為のときの身振りと変わりがないと思い、その二つのイメージを併置したのです。それらが差異を持たない身振りであり、互いにオーバーラップしているということを示そうとしました。(中略)機嫌を取り、愛を示し、こちらに夢中にさせて、敬愛すべき対象としての自身の姿という幻覚を見せる。それから近づいて、関係を持ち、結びつきと愛欲を生む。そういった方法は、個人としての人間たちが持つ関係であれ、国家統治における政府と市民の関係であれ、同じ形をしています。*2

性的そして政治的な支配への欲望が渦巻く舞台に向き合う観客にできるのは、ただ「見つめる」ことだけだ。舞台上で波打つ語りの声は、川岸に降りかかるしぶきのように、ときおり客席に向かう。「あなた」と語りかけられ、観客が感じるのは違和感だ。タイについて無知で政治も一見安定している日本のわたしは、タイの政治的混迷の只中の芸術家カオシンという「あなた」ではありえない。『プラータナー』の題材である芸術家の苦悩と現代タイ社会の混迷は、どうしようもなく日本のわたしとは違う他者であるはずだ。しかし、それでもなお分かち持てる感覚があることが、上演の終わりに明らかになる。

上演の最終部、バンコクのミニチュアのように配置された小道具たちを背景に、ワーリーを演じるヒランウォンクンが語り手としてひたすらカオシンの芸術遍歴を語り続ける。西洋発の論理と理論偏重のコンセプチュアルな現代アートがアートシーンを席巻していくにつれ、感覚と感情を掻き立てる古典的な芸術への憧れの炎が、「あなた」の中で消えていった。「たったひと突きで人の身体と心に刺さり、影響を与えることができる、剣のようなもの。あなたはそういうものを探し求めていた。画家として。いつかは……。あなたはもう感じない」。他の演者達は、いつのまにか客席最前列へと移動し、観客と同じように舞台を「見つめる人間」となっていた。彼彼女らは、所々で語り手に向けて「あなたはもう感じない」と声をかけ、語りを遮る。この声は舞台に向けられ、マイクで響き渡る。何度も繰り返される「あなたはもう感じない」という言葉に、ワーリーの声は塗りこめられそうになる。しかし彼はその言葉に抗うかのように、「もう感じない」カオシンを感じようと懸命に語り続ける。他の声をはねのけ、自らの声で空間を満たそうとするかのようになされるその語りは、「あなたはもう感じない」という言葉にこう答えて、途切れる。

「じゃあ、こういうのは感じる?」

この時わたしに見えるのは、ワーリーがこちらを見つめ、客席に向かって両手を差し伸べている姿だ。彼は舞台最前面の中心で、オレンジ色の低い脚立に乗っている。最初はワーリーを「見つめる人間」だった「あなた」とわたしは、今ははっきりと彼に「見つめられる人間」になっている。今や舞台上にいる演者は二人だけだ。チャオプラヤー川沿いの飲み屋でのカオシンとワーリーの逢い引き、そしてラーマ8世橋の上で、ワーリーが欄干の外に出て、濁流の中に落ちていく様をサマッカブットがマイクで語る。島貫も指摘するように、この二人は、冒頭でそれぞれ17歳のカオシンと彼に絵を教えた美術教師を演じていた。*3 そのときわたしに「あなた」として「見つめられる人間」だった二人は、今わたしを「あなた」として「見つめる人間」になっている。

「死んだらどうしようってあなたが不安になって、心配してるのは、ぼくじゃないんだ。あなたの感情なんだよ」
「いまの言葉はすべて、あなたが言うべきことだ」
「そうだね。ぼくはあなただから。ぼくがなにものかって事実を認めてくれた?ぼくの手を離して」
「あなたはこのまま引き止める。腕が痺れて、痛むまで。そして、もはや体が耐えていられなくなる」

最後の語りの直後にワーリーが身体の重心を後ろに傾け、脚立とともに倒れる。無機質な音が無造作に大きく響き渡る。舞台は暗転し、チャオプラヤー川を模して床に伸びたLEDのロープが青く輝く。わたしはもう感じない。舞台はこれで幕となる。

『プラータナー』の上演で流れる時間は、「たったひと突きで人の身体と心に刺さり、影響を与えることができる、剣のようなもの」というよりむしろ、ゆっくり肌に染み透っていく液体のようだ。欲望に溺れ無感覚に病んでいく主人公カオシンの言葉は、性別を超えて幾人もの演者により語られ、演じられていく。水面が揺れるように舞台上の語り手・演じ手・聞き手は移行し続け、言葉を発する主体と受け止める客体の輪郭はあいまいに揺らぎ続ける。水の中を軽やかに漂うようなタイ語のリズムで「あなた」の言葉を語り、演じる演者たちを水面を覗き込むように見つめていたはずが、わたしはいつの間にかその言葉たちに含まれていた倦怠と無感覚という名の重い粘液の中に沈み込み、最後には「あなた」として演者に見つめられていた。その時、カオシンの「悲しげで少し同情を誘う身体」の倦怠と無感覚が、わたしに憑依していた。繰り返される「あなたはもう感じない」という声を聞き、「もう感じない」ことを感じようと語り続ける目の前の身体を見る時間の果てに、今わたしは「もう感じない」ことを感じているのだと気づく。「もう感じない」という感覚は、日常を送る中で、かすかだが確かにわたしの身体にも染み込み、澱のように溜まっていたのだと悟る。『プラータナー』の上演の空間には、「もう感じない」ことを感じる身体たちがあった。

身体を使った芸術である演劇とは、「もう感じない」ことさえも感じさせることができる術なのだ。言葉も身体も違うカオシンという「あなた」はわたしではない。この二者は舞台と客席の境界線で、はっきり区切られていたはずだ。しかし長い時間を経て、舞台上の「あなた」の身体にわたしの身体は憑りつかれていった。言葉や文化が表面的には違っても、有形無形の暴力に支配され、同じように無関心と無感覚に病む身体の感覚は、同じ人間として共通するものであり、共鳴する。「あなた」はわたしかもしれない。「あなた」とわたしの輪郭は揺れ、触れ、混ざり合う。演劇とはまさしく、こうして他者と自分の身体と言葉が交錯し、「わたしたち」は「同じだが違う、違うが同じ」と感じることである。支配ではない形で、他者と自分のつながり方を模索するために、言葉と身体を差し出そうとする政治的な欲望のことである。

*1 島貫泰介『「あなた」の人生の物語 |『プラータナー:憑依のポートレート』バンコク公演レビュー』
プラータナー 憑依のポートレート ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也(最終閲覧日:2019年10月26日)https://www.pratthana.info/more/review-shimanuki/

*2 ウティット・ヘーマムーン、福冨渉『ウティット・ヘーマムーン――ひとりの物語から、拡張する芸術へ』
国際交流基金アジアセンター特集ページ(最終閲覧日:2019年10月26日)
https://jfac.jp/culture/features/f-ah-uthis-haemamool/3/

*3 島貫泰介『「あなた」の人生の物語 |『プラータナー:憑依のポートレート』バンコク公演レビュー』
プラータナー 憑依のポートレート ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也(最終閲覧日:2019年10月26日)
https://www.pratthana.info/more/review-shimanuki/

【関連リンク】

響きあうアジア2019 『プラータナー:憑依のポートレート』特設ウェブサイト
https://www.pratthana.info/

関連書籍情報(原作小説『プラータナー:憑依のポートレート』、公演記録集『憑依のバンコク オレンジブック』)※『プラータナー』特設ウェブサイト内
https://www.pratthana.info/book/

私たちは、ほの暗い「広場」に集まり、すれ違う ――演劇『プラータナー』参加型企画「あなたのポストトーク」に寄せて(noteウェブサイト)
https://note.mu/precog/n/n009287d8d6cc

響きあうアジア2019 特設ウェブサイト
https://asia2019.jfac.jp/