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シャンカル・ヴェンカテーシュワラン――インド・ケーララから世界を眼差す

Interview / Asia Hundreds

アタパディ地域のジャングルに劇場を建設し、先住民(部族)コミュニティと協働する

内野:ジャングルに劇場を作ってしまうという野心的なプロジェクトの発想はいつ起こったのですか?

シャンカル:象を研究するためにジャングルに行ったときです。アタパディに行ったのはそれが初めてでした。私がインターカルチュラル(間文化主義)演劇を学んでいたとき、それは常に、ドイツや日本といった異なる文化圏の俳優たちとコラボレーションをするということでした。アタパディという環境に触れたとき、すぐ近くにも土着(部族)の文化が残った全く異なる地域があることに突然気が付いたのです。そして、この「間文化」という感性について自問自答しました。この地域において、「間文化」的感性は、なにか意味をもちうるのだろうか、と。つまり、日本やシンガポールといった外国に行かなくても、より深く掘り下げられる何かがここにもあるのではないかと……。

内野:シャンカルさんが説明された「先住民(部族)」とその定義を、読者の方々が理解するのは少し難しいかもしれません。

シャンカル:なるほど。言葉自体が非常に微妙ですね。しかし、インドでは、これは日常生活の中で使われる語彙にあるカテゴリーに入ります。「部族」とは、経済的後進性が見られ、比較的孤立した状態で排他的に生活し、賃金労働や定住農業といった文明的生活の統治と理想を掲げる西洋モデルを完全には受け入れない特定のコミュニティを総称して呼ぶときに使用される植民地用語です。これは、アタパディの文脈において、ということになります。異なる地域では異なる意味をもちます。

内野:「アウトカースト(不可触民)」という言葉は使わないのですか?

シャンカル:「インド先住民」は、元から住んでいる人々を指す言葉として使用されます。しかし、こうしたコミュニティは社会の片隅に住んでいます。また、インドには、ヒンドゥー教社会を分割する社会宗教的構造としてのいわゆるカースト制があります。この制度では、司祭階級が最上位となり、歴史的にこうしたコミュニティは階層に属さない者として排除されています。

内野:バラモンですね。

シャンカル:バラモン、「最も純粋な血統」という観念です。階層が下がるにつれて「不浄」の度合いが増すと言われ、こうした人々は泥にまみれる仕事や革を扱う職業に就いています。こうした制度に応じて、ある階層には特権があり、ある階層からは権利すら剥奪されています。インド先住民はこのカースト制の枠組みの外にも存在します。また、この国には不可触制の歴史があります。これは適切に定義されてはいませんが、憲法では違法とされています。インド人の水の飲み方を見るとわかると思いますが、多くはカップが口に触れないようにして水を飲みます。このしぐさを見るだけでも、身体的な接触を避けていると言えます。
私たちは挨拶するときに握手したりしません。私たちは両手のひらを合わせて挨拶します。こうしたことは、私たちの人生のあらゆる側面に存在しています。非常に不可視なままで浸透してしまっている。

内野:これは、インドの植民地主義に関するより広範な問題につながるかもしれませんが、あえてお伺いします。ケーララ州はイギリスの植民地でしたが、ムガル帝国の支配は受けていませんよね? イギリスにより植民地化されるまで、ケーララ州が独立した地域だったというのは興味深いことです。

シャンカル:ポルトガル人もオランダ人も上陸しましたが、ムガル帝国に支配されることはありませんでした。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヴェンカテーシュワラン氏の写真

内野:それにより、ムガル帝国に統治された他の州との相違は発生しましたか? イスラム教が長年にわたり勢力を保っていましたね。歴史的な違いがあるかどうかについて興味があります。イスラム教の影響により、他の州における近代化の成果はケーララ州の近代化とは異なっていましたか?

シャンカル:インドのトリチュールに最初のモスクが建設されたのは7世紀のことです。ムガル帝国がインドに遠征してきたのはそれよりずっと後の15世紀です。ムガル帝国以前に、ケーララ州にはアラブ世界やイスラム教との深いつながりがありました。また、ケーララ州にはある種の分離主義的な感情があります。これは、歴史的にインドの他の地域と異なるからかもしれません。政治的にもです。現在、インドの中央政府は極右ですが、ケーララ州は共産党政権です。

内野:また共産党が政権を掌握したわけですね?

シャンカル:そうです。共産党が勢力を回復し、今も政権を握っています。

内野:ケーララ州の政治状況を説明したほうがよさそうですね。ケーララ州はインド初の……。

シャンカル:選挙による共産党政権が誕生した州です。サンマリノに次いで世界2番目です。

内野:2年前に私がケーララ州に行ったときは政権を失っていましたが、何とか奪回しようとしていました。

シャンカル:ええ。現在、政権を握っています。これは、革命を経ずに誕生した共産党政権でもあります。実は演劇がその中心的な役割を果たしているのです。

内野:どのような役割ですか?

シャンカル:1950年代のことになりますが、『あなたたちがわたしを共産主義者にした(You Made me a Communist, Ningalenne Communistakki)』という作品がありました。英国統治時代、そしてインド独立後しばらくは、インドでは共産主義が禁止されていました。つまり、共産主義者になるということは、刑務所に入れられるような犯罪を犯すことだったのです。こうした時代に、この演劇作品がケーララ州のあらゆるところで上演されたことで人びとのあいだにプロレタリアートであるという自己意識を目覚めさせたのです。これは、封建的な地主が徐々に共産主義を受け入れ、最終的に進歩的な共産主義者になるという物語です。これは、人々の人生に強い影響を与えました。

内野:なるほど。では、ジャングルの劇場での活動についてもう少し詳しくお聞きしたいのですが、その前にトリチュールについてお伺いします。以前はトリチュールに拠点を置いていらっしゃいましたね?

シャンカル:アタパディに移る前のことです。

内野:トリチュールは出稼ぎ労働者が多く、非常に興味深い都市だと思います。多くの人々がアラブ諸国に働きに出て、男性の大半はそこで働いているようです。そのせいか、大きな家がたくさん空き家のようになっています。その文化は、こうした状況から大きな影響を受けていますか?

シャンカル:インドの他の地域とは異なり、ケーララ州はアラブ諸国からの収入に大きく依存しています。サウジアラビアやクウェート、バーレーン、オマーンなどの国々で働いている人たちがいます。労働者たちは故郷に仕送りしています。ケーララ州の経済の大部分はこうした資金で支えられています。

内野:文化的な影響力はありますか?

シャンカル:イスラム教の影響は強くあります。K・T・モハメドやP・M・タージのような著名な劇作家が誕生したことで、文化的に進歩的な展望がもたらされました。彼らは宗教改革者という存在でもありました。こうした劇作家たちは、演劇を通して、ケーララ州におけるイスラム教の実践と認識を、もっとオープンで世俗的なものに改革しました……。

内野:原理主義ではないのですね。

シャンカル:違います。よりオープンで、進歩的です。非常に進歩的と言うべきでしょうか。

内野:では、またジャングルでのプロジェクトの話題に戻ることにしましょう。開始したのはいつですか?

シャンカル:繰り返しになりますが、私たちが研究のためにジャングルに行ったときに最初の衝動があったわけです。自分の間文化主義的感性がそこで何か意味を持つかどうかを考えました。

内野:しかし、それ以前も、意識的ではないにしても、ジャングルにそうした人々がいることを知っていたのではないですか?

シャンカル:知っていました。しかし、気にしていませんでした。そっちに全く目が向かなかったのです。自分には関係のないことだと思っていました。そうした環境に足を踏み入れ、そこに住むようになってから、自身の問題として考え始めたのです。それが課題だと思うようになり、そしてその問題に対処してみようという気になったのです。

内野:始めは研究しに行ったわけですが、結局そこに住むことにしたわけですね? いつからそこに住み始めたのですか?

シャンカル:2010年からです。

内野:最も大きな動機は何でしたか?

シャンカル:問題に対処するのであれば、まず融合しなければなりません。部外者のままで、問題にアプローチすることはできません。ですから、お隣さんになるしか道がなかったのです。

内野:しかし、その前にこうした人々とすでに会われていましたよね?  以前から、ある程度の面識があったのではないですか? そういう人たちと対話することは非常に困難でしたか?

シャンカル:簡単ではありませんでした。当時はまだ、私は外からやってきた部外者に過ぎませんでしたから。

内野:彼らはマラヤーラム語を話しますか?

シャンカル:マラヤーラム語は話しますが、コミュニティの中でお互いが対話する際は独自の言語を使っています。文字はありません。アタパディには3つの先住民コミュニティがあります。こうしたコミュニティはすべて、憲法の下で指定部族に分類されています。
アファーマティブ・アクション(積極的優遇措置)や他の政策などが施行されています。それはそれで大変に重要なことなのですが、こうした政策はデリーで案が作成されて制定され、中心部から3,000~4,000キロも離れたところに住む人々に適用されているのです。こうしたコミュニティの人々が本当に必要としているものに配慮しているとは言えません。また、この種のアファーマティブ・アクション自体によっても、包摂的排除の感覚が生成されます。部族にも学校というものがあります。しかし、部族の学校で学べば、生徒がそこを出たとしても……。

内野:主流の学校システムには馴染むことができないということですね。

シャンカル:つまり、こうした措置により、また新たな分断や差別が形成されるのです。

内野:では、シャンカルさんのプロジェクトでは、こうした非常に絶望的または困難な状況にどのように介入しているのですか?

シャンカル:私は最初、彼らに協力したいと思ってそこに行きました。また、「私たち」と「彼/女たち」という二分的な考えもありました。結局そこに住み始めて、コミュニティの人たちの家に行ったり、話をしたりしました。演劇もいくつか作りました。そして、ゆっくりとですが、あることに気付き始めたのです。彼/女たちは、私と一緒に活動することに興味を持っているのだろうかと……。

内野:「あなた一体誰?」という感じですね?

シャンカル:こうした課題を克服することに少しずつ取り組んでいくうちに、何とか受け入れてもらえそうな兆しが見えてきました。今では、隣人同士として暮らし、道端で顔を合わせたり、飲み水を共有したりしています。私は演劇を紹介するだけでなく、農民入植者による特定の行為にも介入したりします。「入植者・開拓者」という言葉があります。つまり、「占領」行為が存在するということです。そういう意味では私も占領者なのかもしれませんが、とにかく先住民の土地に農民入植者が存在しています。コミュニティの人たちは搾取されます。農民入植者はお金を持っています。権力もあります。電気を使うこともできます。ですから、彼/女らはポンプで水を汲み上げることができるのです。コミュニティには飲料水を得る手段が与えられていません。飲料水がないなんて、どんな文化だと思いますか? それ故に、私は飲料水のためのプロジェクトを立ち上げました。これにより状況が変化して、信頼や理解が深まり、連帯感も高まっています。そして、私たちは対話できる共通点を見つけるのです。

内野:しかし、それによって、反対側、つまり農民側からのある種の敵対心を煽ってしまったのですね。

シャンカル:そうです。

アジアハンドレッズのインタビュー中のシャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏と内野氏の写真

内野:それにはどのように対処したのですか?

シャンカル:溝があるのであれば、話し合ってそれを埋めていかなければなりません。警察が介入した事例もいくつかありました。私が指揮を取るようなかたちで、コミュニティ側から訴えたのですが……。コミュニティの人たちは文字を書かないので、私が請願書を書いて、それをコミュニティの人たちに読み上げて聞かせなければなりません。請願書は彼らの言葉で書かれているわけではありません。そして、彼らから署名を集めて、警察署にその請願書を提出します。

内野:NPOや他の活動家の協力を得ているのですか? それともご自身だけで対処しているのですか?

シャンカル:劇団の一部の同僚や俳優が協力してくれます。

内野:それではかなり大変でしょう。現在、シャンカルさんはそこに劇場を建設しているということですが、進捗状況はいかがですか?

シャンカル:まず、道を作らなければなりませんでした。その場所に来られる道というものがないのです。工事はまだ完成していませんが、なんとか使えるようになっています。劇場は開放しています。つまり、人間でもヤギでも、誰でも来ることができるということです。不便な部分もありますが、開放することで、劇場に対する異なるイメージを心に思い描くことができるのです。いろいろ課題もあります。最近では地滑りが起きました。避難しなければならず、大変に困りました。それでもやる価値はあると思っています。