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プラープダー・ユン――映画を通して「ホーム」を探す

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

映画制作のきっかけ

滝口 健(以下滝口):まず、ユン監督ご自身について質問させてください。作家としてもよく知られている一方で映画界でも活躍されているなど、いくつもの異なる分野で活動されておられますが、それぞれの分野が何らかの形で影響を与えあったり、知識が役立ったりということはあるのでしょうか。それとも、違うジャンルの創作活動は、それぞれ別のものだととらえていらっしゃるのでしょうか。

プラープダー・ユン(以下ユン):映画制作には常々関心を持っていました。ですから、映画を作るのは大変ではありますが、とてもやりがいがある仕事です。私が多くのことに関心を持っていることは事実です。ビジュアルアーツ、デザイン、写真、音楽、そしてもちろん作家活動。これらすべてが一体となったのが映画です。最終的に映画制作に行き着くのは、ごく自然なことだと感じています。

滝口:映画とのかかわりということでは、まず『地球で最後のふたり』(2003年)の脚本をペンエーグ・ラッタナルアーン監督と共同で手掛けられ、続いて同監督の『インビジブル・ウェーブ』(2006年)でも脚本を担当されました。その後、10年近くたってから『Motel Mist』(2015年)で初めて監督を務められたわけですが、監督を始めるまでにこれだけ間が空いた理由は何だったのでしょうか。

ユン:映画制作に関心があったと言いましたが、実のところ、監督をやるチャンスが訪れるとは思っていませんでした。大勢の人がかかわり、膨大な予算が必要となりますので、自分にできるはずがないとずっと思っていたのです。資金集めは得意ではありませんし。文章を書くことのほうが簡単です。
一作目の長編を撮る機会を得たのは偶然でした。実は、『Motel Mist』の草稿は、別の監督のために書いたのです。しかし、彼には気に入ってもらえなかったので、インディペンデント映画をやっている友人に見せることにしました。私自身は、面白い映画になる可能性があると思っていたので。その友人からソーロス・スクム氏を紹介され、最終的に、彼がプロデューサーを務めてくれることになりました。

滝口:『Motel Mist』は日本では公開されておらず、予告編を見ただけなのですが、鮮やかな色彩がとても印象的でした。そして、最新作の『現れた男』。今、見終わったばかりなのですが、前作と対照的に、こちらはモノクロームの世界でした。

ユン:ええ、ちょうど別の本を書くような感じです。私にとって、物語はそれぞれ固有の映像と音を持っています。『現れた男』は、モノトーンでモノクローム、そしてシンプルな作品に仕上がっています。なぜなら、一味違ったスリラーにしたいという思いがあったからです。スリラー、そしてドラマを目指してはいたものの、一般的なスリラーやフィルムノワールのスタイルを使うのは嫌でした。逆のものにしたかった――つまり、映像は美しく優しげだけれども、ストーリーはまったくそうではない、そんな作品を作りたかったのです。

映画のスチル画像
『現れた男』スチル

「ホーム」の意味するもの

滝口:『現れた男』にこんなシーンがあります。主人公が自分の部屋から出ようとすると、玄関のドアに「There Is No Place Like Home(我が家にまさる場所はなし)」と書かれたカードが貼られている。これを見たときに思い出したのですが、初めて脚本を手がけられた『地球で最後のふたり』の最初のタイトル案は「I am Home」だったそうですね。あなたにとって「ホーム」とはどのような意味を持っているのでしょう。

ユン:興味深い指摘です。私にとって「ホーム」とは物理的なものではありません。コンドミニアムや家といったものではなく、もっと感覚的なものなのです。たとえば、『地球で最後のふたり』では、「ホーム」にいる感覚とは、どこかに帰属している感覚のことを指しています。最終的にどこかに帰属していると感じたら、そこがあなたの「ホーム」というわけです。集団、国、社会――何であろうとかまいません。
『現れた男』でも、その点は同じだと思います。「No place like home」を文字どおりに解釈すると、家のような場所がどこにもない、つまり「ホーム」などないという意味にとることもできます。映画のなかでは、主人公のふたりがマンションの部屋をそれぞれ自分の「ホーム」だと主張します。ですが、その部屋は誰のものでもありません。

滝口:『地球で最後のふたり』では、主人公のノイとケンジがお互いのなかに自分の「ホーム」を見つけます。これに対して、『現れた男』では、最後までふたりは「ホーム」を見つけることができません。

ユン:ええ、そのとおりです。

滝口:これは、この10年ほどであなたの「ホーム」に対する考え方に変化が生じたということでしょうか。

ユン:むしろ、2つの作品で「ホーム」の概念が違うと考えた方がいいのではないでしょうか。『地球で最後のふたり』では、「ホーム」とは人と人との関係、つながりを意味しています。『現れた男』での「ホーム」は共有の空間、例えばコミュニティや社会という意味に近い。同じ文脈で、「民族」や「国」といったものを並置できると考えてもいいでしょう。
空間がこれほど大きくなると、もはやふたりの問題ではなくなり、「『ホーム』は誰のものでもない」と言うことはできません。「ホーム」はあらゆる人のものです。そうなると、それが誰の場所であるかを言うのは難しい。その場所、村、国を所有しているのはあなたではないということを受け入れなくてはなりません。そうではなく、その場所を多くの人と共有しているのだということを認めなければならなくなるのです。

滝口:『現れた男』の冒頭のシーンではiPhoneの着信音が流れます。映画館の観客のなかには、自分の電話が鳴っているのではと確かめる人もいました。着信音はユニバーサルなもので、どこにも、誰の文化にも属していません。また主人公の部屋の家具はIKEAっぽくて、やはり特定の文化に結び付けられるようなものではありません。『現れた男』ではこの種のユニバーサルな要素が強調されており、タイ的な特質ははっきりとは見えないように思いました。

ユン:それは、私が自分を取り巻く現在の状況に関心があるからではないでしょうか。特にバンコクでは、多くの人がこの映画に出てくるようなコンドミニアムに暮らし、主人公たちと同じような生活を送っています。ソウルや、東京、ニューヨーク、パリに暮らす人々も、基本的には同じだと思います。グローバリゼーションによって生み出されるユニバーサルな要素は確実に存在します。そのことを映画に反映させたいと思いました。なぜなら、それは私の暮らしでもあるからです。たとえバンコクに住んでいても、特にタイ式の生活をしているわけではありません。そのようなものに近しさを覚えることはありません。むしろ、もっとユニバーサルで無国籍なものに親しみを感じるのです。

インタビューに答えるプラーブダー・ユン監督の写真

歴史を知り、そして映画制作へ

滝口:ユニバーサルな要素に満ちたこの映画で、一つ大きな例外となっているのは、映画のクライマックスで流れるタイの国歌ではないかと思います。ここに国歌を挿入することにした意図は何だったのでしょうか。ナショナリズムの表象というような意味合いがあったのですか?

ユン:そういう意図ではありません。これも、タイの人々の現実を映し込むことが目的でした。タイでは朝8時と夕方6時に公共の場で国歌が流され、人々は起立して国に敬意を表さなければなりません。これが毎日繰り返されます。一つのループとなっているのです。
これは現実です。しかし同時に、人工的に作られた奇妙な現実でもあります。このような伝統はすべての国にあるわけではありません。毎日繰り返されるこのループについて考えてみたいと思ったのです。最初は、このような伝統に疑問を覚えた人もいたことでしょう。しかし、しばらくすると、誰も疑問に思わなくなります。自分たちはなぜ毎朝こんなことをしているのか、その理由を調べてみようなどと考える人は誰もいません。

滝口:タイの若いアーティストたちの間で、歴史に対する関心が高まってきているように感じています。映画に限らず、他の芸術形態でも同様の傾向がみられるのではないでしょうか。

ユン:そのとおりだと思います。タイは10年前から政治的な問題を抱えています。いざこざが続き、誰が正しくて誰が間違っているのかを見極めるのが困難な場合もあります。多くの若者が、判断の基準として、自分たちの国の歴史を勉強したいと考えています。歴史から学ぼうとしているのです。

滝口:あなたもそのような動きに関心があるのでしょうか。

ユン:ええ。それが不可能な場合があることは知っていますが、それでも真実を追求したいと考えています。自分が知りたいと思っていることを学んでみたい。非常にシンプルな動機です。タイの学生は、政府公認の教科書を使って、当局が知ってもらいたいと思っていることだけを学んでいる。長年、私はそう感じてきました。タイでは多くの人が同じように感じています。社会の抱える多くの問題に気づき、それらに疑問を抱き始めると、違った視点を持つために独自の情報を探すことが必要になるのです。

滝口:そのことは、映画制作にも影響していますか。

ユン:そう思います。それによって語るべき課題やテーマが見えてきます。私は政治的なアーティストではありませんが、政治を避けて通ることはできません。

滝口:次回作を楽しみにしています。どうもありがとうございました。

参考情報

『Motel Mist』 公式トレイラー

『現れた男』予告編(東京国際映画祭YouTubeより)

第30回東京国際映画祭(2017年)『現れた男』作品紹介ページ

第30回東京国際映画祭(2017年)『現れた男』イベントレポート


インタビュアー:滝口 健(たきぐち けん)
ドラマトゥルク、翻訳者。1999年から2016年までマレーシア、シンガポールに拠点を置き、シンガポール国立大学よりPhD取得。数多くの国際共同制作演劇作品に参加。アジアン・ドラマトゥルク・ネットワーク創設メンバー。現在、世田谷パブリックシアター勤務、東京藝術大学非常勤講師。