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思考する身体――パドミニ・チェターレクチャー

Lecture / Asia Hundreds

第二部:チャンドラレーカーの思想とパドミニ・チェターの創作

私がチャンドラレーカーに出会ったのは1990年のことで、当時20歳でした。すでにインド古典舞踊の訓練は受けていましたが、踊り手として活動することは考えたこともありませんでした。大学に行き、20歳の時にチェンナイへ戻って来ました。チャンドラが地元の踊り手たちと探究を始めた初期の活動については知りませんでした。しかし大学に通った後、論文執筆のためにチェンナイへ戻って来た時に、彼女に会ったのです。そして踊り手の一人に稽古場へ招かれました。チャンドラに会った時、これで何らかの形で私の将来が決まるとわかりました。彼女はすぐに私を説得にかかりました。あの時のこと、そして彼女のことを振り返って考えると、あそこで私は科学者から舞踊家に戻ったのです。歴史を理解する必要を感じていて、それもチャンドラが言葉で教えてくれるだけでなく、体で理解することへと導いてくれることを欲したのだと思います。

手垢のついた言い方になってしまいますが、これが私の「脱植民地化」だったのでしょう。よくわかりませんが。とりあえず鍵括弧付きにしておきます。とはいえ、1970年代のインドで育ち、イギリス人が作った学校に通って英語で教育を受けた私は、チャンドラに会うまで、こうしたことを何一つ不思議に思ったことがなかったのです。家族の大部分は学者で、既に西洋諸国に移住している者も多くいました。私は本当に深く考えたこともなかったのに、チャンドラは私にぴしゃりと言いました。「あなたのように英語で勉強した人間はね。口の形から歪んでいますよ」。こんな風に言うのでした。

実際チャンドラと活動を始めた時、舞踊は彼女の指導の内、ごく小さな一部分に過ぎませんでした。あらゆることについてさまざまな議論が交わされました。社会の中で生きるとはどういうことか。若い女性であるとはどういうことか。そして私たちにただこう言い放つのです。「若くて可愛いというだけで時間を無駄にするな。さっさと年をとれ」。今となっては理解できます、自分なりに年をとりましたので。でも当時は20か21の娘でしたから、まだパーティーへ行ったり、西洋風の都市生活を過ごしたいと思っていたのです。衝突や緊張関係は絶えませんでしたが、それは愛のあるもので、踊り手たちに門戸は常に開かれていました。チャンドラと呼ぶことのみ許され、先生とかグル〔師〕といった呼び方はできませんでした。そしてたくさんの議論、緊張関係、摩擦が起きました…。10年の間に何度か、舞踊団を追い出されることもありました。そのたびにまた呼び戻されるのですが。幸運にも彼女は寛容さを持ち合わせていましたので、ひと月もすると「よろしい。戻ってきなさい。全て許します」と言ってきました。

ここは私にとって、ダンス・スクールや振付センターをはるかに超える場所でした。舞踊を、同時代の政治と関連付けながら考える方法の基盤が整えられた場所だったのです。とはいえ、チャンドラと活動して3年が経過した頃ですが、自分も挑発したり疑問を投げかけたりするのが大好きな質ですので、問いを発するようになりました。チャンドラの作品で、演じるのに少し抵抗を感じるような部分があったのです。あるイメージを演じるうえで、自分の身体性をあまりに強く意識させられてしまうと感じていました。人であり、踊り手であり、考える存在である私の内なる生命と、理解が及ばないほど彼女の作品に頻繁に現れる図像的表現の間にやや距離があると思いました。逃げ出したかったわけではありません、そうではなく、23歳から30歳までの7年間にはこう発言することもあったということです。「いえ、私はチャンドラのもとに留まります。本当に自分に必要だと思うから彼女について行っているんです。でも何か違うものが必要だと思う。何か別のものを探し始める必要があるんです」。舞踊から情緒的なものを排除する必要についてはチャンドラと同意見であっても、踊り手の、もっと柔らかく、人間的な、不完全な側面を許容するようなやり方はあるはずだと思っていたのです。また彼女の求めるような幾何学的な正確さから大きく外れたイメージや動きを探ることにも強い意欲がありました。

作品Fragilityの写真
写真No.pc1Fragility』(2001)写真:Deodaat Visser

こうして、ごく短い不格好なソロ作品や、仲間たちと作った短い習作を作り続けて7年を過ごした後、この写真(写真No.pc1)のカルテット作品を作りました。とても古い写真ですが、『Fragility』というタイトルです。この7年間、何をしていたかというと、古典舞踊とチャンドラレーカーのもとで長年の間に培われた、私の身体における様式性の組成について考えていたのだと思います。この様式性の美学が足枷になっているように思えました。ちょうどバラタナーティヤムがチャンドラにとってそうであったように。仲間のクリシュナ・デーヴァナンダンとともに、7年間、ただ稽古場で互いを見て、観察して、こうしたマンネリズムの組成を解体し、除去する試みを続けました。手の使い方とか、体幹の動かし方といったことです。というのも、チャンドラのもとで数年を過ごした時点で、彼女が薦める身体運用の一部にやや不健康なものがあって、このままでは自分の体を傷めてしまいそうだと思われたのです。とくに体幹の用い方がそうだったのですが。

クリシュナとともに、他のソマティックな技法の実践者たちと対話を試み、本を読んだり、解剖学に目を向けてみたり。当時もちろんインターネットはありませんから、何でも試したのです。ひたすら勉強し、見てまわりました。私たちはこう自問しました。「こうした知識をいったん全部捨て、所与のものではなく、自ら選び取った知識として持つような境地に至ることは可能だろうか」と。

こうした考えから、自分なりに身体をめぐる研究を始めたのです。もう一つ自分にとって重要だったのは、こうした研究を通して、古典的な修練を積んだ踊り手が何か別のことをしたい場合に役立つ指導法を編み出したいと考えていました。「何か別のこと」というのは、現代的とかそうでないとかではなく、ただ身体を使った何か別のことという意味です。『Fragility』は4人の女性による作品でしたが、曖昧さをめぐる問いにまさに没頭しました。チャンドラの作品に満ち溢れている力、美、明瞭性といったイメージから思い切り離れてみることが必要だったのです。ある問いを投げることがそのままある美学を提起することでもありました。すなわち「古典的な修練を積んだ踊り手が、もはやその踊り方に確信を持てなくなった時、何が起こるのだろう」という問いです。

『Fragility』が、どうしたわけか、その時インドを訪れていたサシャ・ヴァルツの目に留まりました。彼女が共同制作を提案して、他のヨーロッパの劇場に私の作品を紹介してくれたおかげで、作品はヨーロッパで若干のツアーをすることになりました。そこで初めて、このような作品を取り囲む機械仕掛けのシステムの全貌が自分の前に見えてきました。すなわち、設備の整った劇場で作業するということです。インドで一緒に仕事をしていた技術スタッフはそうした環境とうまく折り合うことができませんでした。私にとっても大きな壁でした。しかしそれは生産的なものでもあったのです…つまりこの時、スプリング・ダンス(芸術監督はサイモン・ダヴ)のようなフェスティバルのおかげで、ヨーロッパの若い前衛的な振付家たちとたくさん議論をする機会が生まれたのです。ナショナリズム、美学、衣装などをめぐるさまざまな問題が活発に話し合われていました。2000年から2005年にかけて、『Fragility』の次の作品としてソロの連作を作り…それから2005年には『Paperdoll』という作品を作りました(完成まで3年かかりました)。これはシャウビューネ、パリ市立劇場、クンステン・フェスティバルと、ユトレヒトのスプリング・ダンスによる大掛かりな共同制作でした。

これは私の経歴の中でも特別な時期でした。というのもこの時、私はナイーヴにも、自分がある地点に辿り着き、もはやチャンドラの作品に対するオリエンタリズム的な眼差しという大問題は崩れて消えてしまうのだと、そしてこれはインドの現代舞踊にとって画期的なことだと考えていたからです。当時、私の作品の初期のプレゼンターとなった人々とはたくさんの話し合いが持たれました。彼らは言葉を探していました。これを一体どう名付けて紹介すればいいのだろう? どこで上演すればいいのだろう? やはりインドの旗を掲げて紹介するべきか? 「現代インド舞踊」だと紹介するのか? それとも「インドのコンテンポラリーダンス」か? それにこういう問題もありました、「この特殊な作品と美学を観客に理解してもらうにはどうしたらいいだろう?」と。どう文脈付ければいいのか、というわけです。

作品Paperdollの写真
写真No.pc2Paperdoll』(2005)写真:Jirka Jansch

『Paperdoll』(2005年)から短い映像を見ていただこうと思います。作品の冒頭部分です。というのも表現語彙を発展させる初期の取り組みがよく表れているからです。まだ様式性が残ってはいるものの、伝統的な素材をそのままなぞるのではなく、解剖学的な検討を加えた結果でもあります。『Fragility』やソロの連作を通じて、プレゼンターたちは、これは難儀だと悟っていきました。そして今も変わりません。私の作品を受け容れる上での難しさは、部分的には、作品の極端な時間構造にあります。踊り手たちは観客を楽しませようとはしません。しかし同時に、身体言語には奇抜なところがあり、一般的なヨーロッパ中心のコンテンポラリーダンスの概念からは切れているのですが、同時に、明らかに特異で、また精密ですので、人々は「これは伝統舞踊なのだな」と思ってしまったり、あるいは何か装飾的(!)なものだと安易に決めつけてしまったりします。作品を上演する際に問題となるのは、「どうやって観客を集中した状態に持って行くか? この作品を理解してもらうには、あるいは何らかの興味を持ってもらうには、どういう枠組を示せばいいか?」ということなのです。

この映像は、パリ市立劇場での公演の時のものだと思いますが、観客が入ってきているところで、客席ではお喋りがかなり聞こえていました。もう踊り手たちは位置について立っていて、観客が歩き回ったりお喋りなどをしている騒がしい状態が収まるのを待っていました。しかし当ては外れ、お喋りはいつまでも続くのでした! 全くうまくいきませんでした。音響が聞こえ始めても、まだ入ってくる観客がいました。ここで私は上演というより、上演の成立へ向けた私なりの文法を提示していたわけです。

これは自分自身の興味でもありました、つまりエキゾティックなものと誤解されやすい自分の舞台に一定の「枠組」を与えることで、見慣れない作品を包み込む誤解や紋切り型の理解と戯れるわけです。それに…知的努力と好奇心をもって「他者」と関わることへの消極性に対しても。トレーの上に並べて食べやすくしていないような作品は、拒絶してしまう方がはるかに楽です。

1993年に最初のソロ作品を作ってから、2006年に上演した『Pushed』という作品までは、ナラティヴを扱っていた時期といえます。常に私の念頭にあったのは、形式と内容の必然的な連関でした。その作品が語りたいこと、あるいは引き起こしたいことに応えるような、動きの素材を練り上げるという論理で作業すれば、舞踊をそれ自体の本質的な無意味さ(!)から救い出せるだろうと考えました。私は振付家として、一定の創作手法を開発することで、色々な場に応じて上演可能な作品を作れるようになろうとは考えてきませんでした。むしろどの作品も、こう考えることから始まっていたのです。「この作品で何を語りたいのか? そしてそれを適確に伝えられる形式をどうやって作り出すか?」。2006年の『Pushed』まではこうでした。創作はいつも長い時間がかかり、1年か2年はずっと作業をしていました。ところが変化が起きたのです。

『Paperdoll』では、出演者が5人並んでいますが、私と、チャンドラレーカーの作品でも共演していたクリシュナ・デーヴァナンダンと、バラタナーティヤムの踊り手で現在は振付家になっているプリーティ・アスレヤ、そして、古典の修練を積んでいない二人の踊り手です。この時からグループの構成が変化してきました。というのも、チャンドラのもとでの活動も終盤だったわけですが、チェンナイのバラタナーティヤムの踊り手たちがこうした路線にさほど興味を抱いていないことがますますよくわかってきていたからです。集まってくる踊り手は、全くの未経験者か、何か体操やバレエを少しやってきた人という具合だったわけです。ただし指導は絶えず入念に行っていました。『Paperdoll』は完成に3年かかっています。これ以後は、もう少しだけ作業が速くなりました。当時は多くの時間をトレーニングにも費やしていて、というのもこの頃は今以上にテクニックにこだわりを持っていたからです。

『Paperdoll』は2000年代前半、有力なプレゼンターから支援を受けていました。当時はまだ世界が政治的にも、また文化の状況に映し出される様子としても、はるかにオープンだったと思います。フリー・レイセン(当時、クンステン・フェスティバル・デザールの芸術監督)のようなキュレーターたちは価値判断よりも他者に場を与えることを強く主張していましたが、彼女自身もそう言っていました。パリ市立劇場のプログラムにおいていつもインドの舞踊に気を配ってくれるジェラール・ヴィオレットのような人々もいましたし、この頃は自分の作品にある種の関心が向けられているのを感じていました。

『Paperdoll』のツアー中に韓国のキュレーターたちと出会いました…その時まで私はヨーロッパをまわっていて、あとはインドで少し上演していただけですが、2006年に初めて、ソウル・パフォーミング・アーツ・フェスティバルから素晴らしく寛大な招待を受けました。しかもかなり変わった仕方で作品を委嘱してきたのです。「好きなものを作ってください、ただし作曲家だけは韓国に来て、韓国の伝統音楽の奏者とコラボレーションしていただきたい」というものでした。彼らはマールテン・ヴィッサーと私が伝統的な型や音楽と全く新しい仕方で作業をすることに強い関心を寄せていました。韓国の音楽家や舞踊界にこうしたプロセスを見せたかったのですね。こういう依頼でしたから、つまりは音楽作品の委嘱に、舞踊の上演がくっついてきたわけです。

作品PUSHEDの写真
写真No.pc3Pushed』(2006)写真:Venket Ram

先ほど話しかけていた、変化の話に戻りましょう。それがこのレクチャーの主題ですからね。『Paperdoll』はかなりの成功を収めました。しかし私としては、芸術的な意味でいえば、エキゾティックなものとして受け取られることで成功したという点で裏目に出ました。次の作品を作った時にようやくそれに気付いたのですが、というのも、さらに研究を進めて次の作品、後でお見せする『Pushed』に取り組んだ時、受け取ったのが「ああ、これは抽象的すぎる。『Paperdoll』のようにもう少し華やかな作品がいい」というコメントだったのです。いつもこういう話をしていました。「インドのアーティストは美学的に、また形式上どこまで逸脱できるのか、その作品はどこまで知的に、率直になれるのか? どの程度インドらしければいいのだろう? 本当の意味でのインドらしさとは何だろう?」。こうした疑問が絶えず、そして今も、漂い、循環していて、ある特殊な問題と非常に息苦しい空間を生み出しているように思います。

『Pushed』は振付の依頼でしたから、この作品では空間の研究にすっかり集中することにしました。『Paperdoll』ではそこまでしませんでした。もっと抑制していたのです。『Paperdoll』では5人の踊り手がずっと舞台上にいますが、『Pushed』では全く逆をやることが重要でした。この作品はほぼ全編にわたって、後で少し見ていただきますが、踊り手の登場と退場を見せています。しかし同時に、後から見てみると、おそらくこの時から自分が舞踊をイメージとして捉え始めたのだとも思います。後でこの点をさらに考えることにしましょう。またこの作品では、デリーの素晴らしい照明デザイナーであるズレイカー・アラーナーと仕事をする幸運にも恵まれました。妥協知らずで非常に細かい彼女の仕事も、この上演の非常に重要な一部分となりました。

「身体はどのように時間と空間をつかむのか」をめぐる考えが私の中で明確になってきました。『Paperdoll』に比べ、この作品を受け容れてもらうのはとても難しく、大抵、ヨーロッパの観客には抽象的すぎると言われました。ところがインドでは驚くほど大きな成功を収めたのです。この作品は感情を探究したもので、といっても感情を表現するわけではなく、感情に関わる概念の身体的イメージを追究しています。伝統的な韓国の音についての理論に見られる概念から出発したのですが、これはインドのナヴァ・ラサ〔9つの感情〕の理論にも共通するものでした。体についての探究でもあって、力や安定性からは距離を置いて動きと深く向き合うこと、むしろ均衡と不均衡の境界を探ることが重要でした。またこうした考えはどれも、自分の作品にどんな倫理的枠組を与えるか、そして踊り手たちとどのように協同作業していくか、という問題にも関わってきました。

先にも述べたように、ここで自分の活動に一つの区切りが付きました。それまでは、舞踊で世界の中の何かを変えられると感じていたのです。しかしこの時点で私は「世界を納得させる」という発想そのものからすっかり心が離れてしまいました。また現代インド舞踊のキャンペーン・ガールとして扱われることにも、キュレーターたちの要求に応えることにも飽き飽きしてしまったのです。この次の作品を作る前に書いた文章の中で、私は世界の政治問題のどれ一つとして舞踊が解決できるとは思わない、だから単純に美しいものを作ることにしたい、と記しています。素晴らしいコラボレーションを二つ、照明デザイナーのヤン・マールテンスとともに始めました。Beautiful Things(美しいもの)と名付けたこのシリーズでは、「意味」を担うことを放棄し、むしろ空間と時間の中の身体、リズムなどの構造の探究にどっぷりと浸りました。そこでは身体を研究の道具として一層はっきりと中心に据えました。それと忘れてはいけないのですが、『Fragility』以来、私の全作品の音楽/音響をマールテン・ヴィッサーが担当しています。20年以上にわたって私の作業に寄り添い、非常に緊密に協働しながら、私が言葉にする以前の事柄を独特の仕方で音に翻訳してくれています。