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ウティット・ヘーマムーン――ひとりの物語から、拡張する芸術へ

Interview / Asia Hundreds

小説における「父」

福冨:あなたの作品、特に長編作品の多くで、主人公たる少年ないし青年と、その父の関係が多く語られています。そこにはあなた自身のお父さんの姿が投影されているとも言われていますね。お父さんの話を書いていたのは、一体何のためだったのですか?

ウティット:当時のぼくに大きな影響を与えた出来事に、父の死がありました。大学3年の時だと思います。ぼくと彼の関係は、あまり良くありませんでした。芸術を学ぼうと決めた時、ぼくはほとんど家から追い出されるようなかっこうでしたし。
ぼくの方にも、自分の決めた目標を達成し、成功を収めたいという野心があった。成果を彼の前に持ち帰って、それを誇りたかった。ぼくは家から逃げ出したけれども、成功を彼の顔面に投げつけてやりたいと思っていた。「ほら見やがれ、芸術だってやっていけるんだよ、生活していけるんだよ」って。けれども、まだ何一つまともな作品を作れていないし、まともな収入もなかった。でも父は死んでしまった。中途半端なまま宙吊りにされてしまったのです。それ以来、成功にはもう絶対にたどり着けないのだと思うようになりました。本当にそれを見せたかった人は、もういなくなってしまったからです。
だから、執筆した小説の多くでは、父が物語における重要な役割を担います。遠くから監視する存在だったり、統制や支配のために訪れる存在だったり。父の人格がモチーフとなって、そういったものが生み出されました。

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福冨:たとえどれだけお父さんのことを書いたところで、お父さんはそれを読むことができなくても?

ウティット:つまりそれは、自分自身への理解を深め、自身の感情を浄化するプロセスだったのです。自分で問いを立てて、自ら答えるというような。

福冨:短編作品ではむしろ、都市生活や、日常の経験や、若い男女の関係、愛、孤独といったものがテーマとなっていますよね。

ウティット:大きな作品を書くようになって、父が姿を見せるようになりました。ほとんどすべての長編作品に登場しています。『ラップレー、ケンコーイ』(2009)でも重要な役割を担うし、『追憶の形象』(2012)では父が死ぬ。だけどそこに残されものがたくさんあって、それを追っていくような話ですね。『転生』(2015)に登場する夫のキャラクターにも、父が強く現れています。
その形式が展開されて、父という存在は、ただの一個人以上のものになっていきました。社会における父性とか、ルールや規律であったりとか、それらに人を従わせようとする抑圧であったりとか、そういったものに。ぼく自身の個人的な体験という形式だった父から、ぼくたちが生きているこの国の他の空間におけるしきたり、伝統、慣習的道徳の化身・象徴に変わっていきました。その変化が、男性優位社会の視点を通じて生まれます。妻や子といった自らの家族に指さすことで、あらゆる命令を下すような。父という個人から、より象徴性を持ったイメージに変わっていったのです。

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福冨:ご自身が、お父さんから強い抑圧を受けていた?

ウティット:そうなんです(笑)。ぼくの父はまず、口が悪かった。母や、他の女性を罵っているところをよく目にしていました。子どもたちの目の前で、母を「この腐れ××が」と罵って、母を、家庭における道化にしようとしていた。
他にも、子どもに関するあらゆることを自分が決めて、それを強制していました。「この子はこれを勉強させろ」「この子どもはあの仕事につかせろ」と命令していました。不満があれば、すぐ罰を下します。父は、そばにいつも鞭を置いていました。鞭がない時は、手と足が出ました。怒りのコントロールに何か問題があったのでしょう。それが家人、自分の妻や子どもに降りかかる。
ある日、何かのきっかけで彼の機嫌を損ねてしまいました。ぼくは外に逃げ出しました。父の怒りは極限に達しており、走って追いかけてきました。「待て」の声に振り返ると、そこに石が飛んできました。この額の傷はその時のものです。ガツンと石が当たって、その場で意識を失って、顔面血だらけで倒れました。母は驚きのあまり大泣きしていて、父の方は、何食わぬ顔で、そのままどこかに行きました。
感情のコントロールができなくて、暴力をふるう父に、頻繁に悩まされていました。何をしても彼は気に食わなかったのです。その結果が罰として表れた。道端の木に縛りつけられて、一日中陽射しや雨風に晒されたり。仕事に出かける父が、ぼくに「帰って来るまで、そのままでいろよ」と言いました。ぼくは、「縛られてるんだから、どこにも行けるわけないだろ!」と思っていました。
虐待かと問われれば、そうなのでしょう。現代社会ならそういう言葉も使えるのでしょうが、あの時代では「父」が、あらゆる人間の命を支配する持ち主だったのです。誰に対して、何をしてもよかった。「保護者」であり「父」である彼は、「過ち」というものを超越していました。社会通念の大きなイメージが見えてきますね。過ちであるにもかかわらず、過ちを超越して、その責任を取る必要もない。これが、タイ社会にはるか昔から存在する思想なのです。それを、ぼくは個人的な形で体験した。父は過ちを超越し、父は間違えない。けれども彼は、その過ちを、罰として他人に与えることはできる。
でもこれで、ぼくの思想において「父性」と「国家性」というものが比較されていることがわかりますね。

「ケンコーイ叙事詩」:記憶、歴史、新しい伝説

福冨:2009年の長編『ラップレー、ケンコーイ』で同年のセブン・ブックアワードと東南アジア文学賞を獲得して*3 、「成功」を収めたとも言えますよね。

*3 セブン・ブックアワードは、セブンイレブンを経営する超巨大コングロマリット、CPグループが選考する書籍賞。いくつかの部門に分かれている。東南アジア文学賞は、タイ最大の純文学賞。年に一度選考される。

ウティット:賞を獲る前にも二つの長編作品を書いていました。『双子の舞踊』(2004年)と『鏡|像』(2006年)です。
ぼくがタイの文学界に入っていったのは、タイ文学の主要なテーマが個人の感情や物語になっていった時代でした。それまでの文学は「生きるための文学」と呼ばれて、社会的な現象や出来事を主に扱っていました。ただそういった傾向は、突然生まれてきたものではないのです。
芸術メディアの中で一番大きな語りの声を持つ映画において、当時の作品に大きな影響を与えていたのは、王家衛(ウォン・カーウァイ)的なもの、蔡明亮(ツァイ・ミン・リャン)的なものでした。文学では、村上春樹の短編が翻訳されて、タイに入り始めていました。それで、都市の孤独な青年とか、社会の虚しさに囚われている個人とか、そういったものに向かっていきました。
ただ、ぼくの作品はそんなに承認欲求が強いようなものではないというか(笑)、登場人物が自己憐憫の中に沈み込んで、なんとなく社会の空虚に流されていくようなものではなかった。登場人物の感情の深奥に潜って、それを説明するようなことが、ぼくは得意でした。そこが、ぼくの作品の特色だとよく言われています。登場人物の心的状況を叙述する際の意識の流れの使い方だとか。登場人物の心内が、一つの部屋の間取りや設計図のように描かれるとか。ここには棚が、ここには冷蔵庫が、ここにはコピー機が、というように、すべてを有形の像として描いているからです。
『双子の舞踊』に、デーンアラン・セーントーン*4 が序言を寄せてくれたことで、ぼくの作品に注目が集まったということも否定できません。馴れ合いを好まない、文学的反乱者としてのイメージも形成されました。苦悩を描いた物語だとか、性的描写があからさまだとか、どうしてこのテクストは、こんなにも心を動かすのだろうか、といった評価を受けました。そういった要素が、登場人物の内面から語られていきます。多くの読者や批評家が、それを「新しい声」だと見るようになりました。『鏡|像』でも、良い反応をもらいました。
一つのピークに達したのが、長編第三作目の『ラップレー、ケンコーイ』でした。この作品では、アイデンティティ、自我、セクシュアリティ、父子の関係、家庭内の抑圧について述べ、舞台のケンコーイ郡*5 を、タイ文学における新たな一つの世界として創造しました。この作品は、東南アジア文学賞と、セブン・ブックアワードという、二つの大きな文学賞をもらいました。
賞を獲ると、一般の人々も読んでくれます。多くの読者にとって、ケンコーイという場所が、新しい文学の空間になったわけです。そこを架空の場所かのように考える読者もいれば、読後にケンコーイに向かい、作品の聖地巡礼をする読者すらいました。「あの大きな木はどこにあるの?」「セメント工場はどこ?」みたいな。

*4 作家。人里離れた山奥に住み、作家のコミュニティともほとんど関わりを持たない。1993年に発表した長編『白い影』がフランスを始めとする各国で翻訳され、話題となった。2014年に『毒蛇』で東南アジア文学賞。

*5 タイ国中部サラブリー県の中心部に位置する郡。ウティットはここの出身。

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福冨:『ラップレー、ケンコーイ』に始まり、2011年の『追憶の形象』、2015年の『転生』まで、ケンコーイを舞台とした、「ケンコーイ叙事詩」とも「ケンコーイ三部作」と呼ばれる作品群を書くようになっていくわけですね。『ラップレー、ケンコーイ』では、その土地に住むとある家族の記憶が語られます。『追憶の形象』ではその土地に住む人々の関係と、その土地の歴史が交差する。『転生』は、世界創造の伝説から始まり、そこに住む人々の命や魂が、幻想的に、しかしダイナミックに躍動しています。元からケンコーイを舞台にしたシリーズとして書こうという意図があったのでしょうか?

ウティット:そういう意図が初めにあったわけではありません。ケンコーイのことを書こうと思った時は、『ラップレー、ケンコーイ』だけのつもりでした。けれども、次の小説『追憶の形象』で、父という登場人物と、その土地の父性や、土地の歴史について述べることになりました。歴史資料とか、王朝年代記のようなものも参照しました。
父の葬儀のために、地元に戻った兄と弟が再会する。それが、ラッタナコーシン朝(1782-1932)初期の王朝年代記に記された、ラーマ1世と、その弟であった副王の対立と並行して語られます。その対立が、ラーマ1世の戴冠前に王座にあった当時の王、すなわちタークシン王にどのような影響を与えたのかということですね。
当時はビルマがタイに侵攻して、アユッタヤーが滅びたところでした。タークシン王は兵力を集めて反撃に出ようとします。のちのラーマ1世とその弟スラシンハナートは、タークシン王の右腕と左腕として、タイの攻勢に協力したのですが、一方で兄弟の対立が起きてしまう。それが、作中の登場人物である兄弟の対立と対比されるのです。その対立は、父の葬儀の場で起きます。
そこにも偶然ケンコーイという場所を使ったことで、ケンコーイという空間の地理学が生まれました。執筆当時、ぼくは書籍の編集者、校閲者として生計を立てていました。当時校閲していたものが、歴史関係の資料ばかりだったのです。そこで読んだ何百年も昔のアユッタヤー王朝年代記の中に、サラブリー県と、その仏足石*6 について述べる場面がありました。その本の編集業務に就いたことで、自分の故郷のルーツというものが見えたのです。そこで、ケンコーイという土地を、そこに住む人々の生活を通して、一つの国のように想像するようになりました。その結果として、三部作にする意図はなかったのにも関わらず、『転生』という小説も生まれたのです。
『ラップレー、ケンコーイ』は、土地の記憶について述べています。『追憶の形象』は、土地の歴史について。『転生』は、新しい歴史の創造です。新しい伝説を作り出したと言ってもいい。現代における事実とその理解の体系から、歴史や過去を創造するものになりました。
『転生』に、サラブリー県のさまざまな地域がどのように誕生したかを語る場面がありました。あれらはすべてぼくが創作したものです(笑)。歴史的事実をベースに、そこからつまみだして混ぜました。もしケンコーイの人々に「この伝説は本当か?」と聞いても、「そんなものない」と言われます。
物語を越える物語を作ろうと思ったのです。つまり、もはや物語としてふるまおうとしない物語ですね。創作としてそこにあるのではなく、何食わぬ顔で歴史や年代記、事実のふりをして、そこに存在する物語を。それが『転生』での挑戦でした。かなりの反響があったので、それなりに成功したと言えるのでしょう。
ぼくの書く小説はどれもとても分厚いです。しかも特定の土地の話しかしていない。ケンコーイという場所以外に、それぞれの作品に連続性はありません。語れば語るほど、土地や場所そのものも、その歴史も、隕石のクレーターのように、どんどんと拡張して深くなる。その結果、これらの作品が「叙事詩」「三部作」と呼ばれるようになったのです。

*6 アユッタヤー時代(14世紀~18世紀)に発見されたという伝わる仏足石。多くの王が礼拝に訪れ、現在ではその場所に寺院が建立されている。