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国際交流基金アジアセンターは、アジアの人々の間に共感や
共生の心を育むため、様々な分野で文化交流事業を実施しています。

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多和田葉子×プラープダー・ユン――Between Language and Culture(言葉と文化のはざまで)

Symposium / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

異なる文化に飛び込む

プラープダー・ユン(以下プラープダー):まずは私たちの簡単なバックグラウンドから始めましょうか。私はタイで育ち、アメリカでの教育を受けるために15歳で渡米しました。多くの国とは違い、タイでは特定の社会的バックグラウンドで育った子供たちが10代のうちに外国で学ぶことは珍しくないと思うのですが、当時は行きたがらない子が多いように感じていました。実際にそうなのかどうかはともかく、少なくとも私にはそう思えました。でも、常識から外れた道に進みたいと思っていた私は、海外に出たくて仕方ありませんでした。ご想像の通り、私が興味を持っていた分野は芸術でしたが、タイで推奨される学問と言えば数学や科学で、芸術に関することではありません。芸術を学んでも役に立たないという人ばかりでしたからね。しかし多和田さんは、大学を出てからドイツに渡っています。その決断に至った理由を教えていただけますか?

多和田葉子(以下多和田):日本人にとって、外国に出ることは一般的ではなく、多くの人が日本で暮らすことを当然と考えていました。でも、私はロシアやフランス、イギリスなどの文学を大学で学んでいたので、ヨーロッパとヨーロッパの文化にとても興味があったんです。当時のお気に入りはロシア文学でしたが、政治的な理由からロシアに行くのはためらわれました。ドイツに行った理由は、学術書を販売する仕事に携わっていた父親がハンブルクのある企業と接点を持ち、その会社が実習生を探していたからです。それで応募し、働くことになりました。

プラープダー:まったく異なる文化に飛び込んでいくという体験を、どのように受け止めていたのですか?

多和田:ドイツに渡るまでは、「ヨーロッパで2年過ごせるなんて最高」と思っていました。でもドイツに着くと、やっぱり2年は長過ぎると感じましたね。ヨーロッパについて、さまざまな文献を通じて多くの知識を得ていましたが、向こうの文化の中で実際に生活することは、それをただ知っていることとはまったく違います。何もかも新しいことばかりで、当たり前のことが当たり前ではなくなり、圧倒されました。ドイツ語とロシア語は日本で学んでいましたが、実生活では会話をなかなか理解できませんでした。とはいえ、同僚が本当に親切にしてくれました。夕食に招待してくれたり、職場だけでなくプライベートでもサポートしてくれて。そういう点で、私はとてもラッキーだったと思います。

プラープダー:2年が過ぎ、多和田さんはドイツに残ることを決めました。現在はベルリンにお住まいですか?

多和田:はい。ハンブルク時代は授業やレクチャーに通っていました。誰でも自由に受けられる講座があったもので。学生たちの文学議論がおもしろくて、もう少し長くここで勉強したいと思いました。その後、友人であり、私の作品を出してくれることになるクラウディア・ゲールケに出会いました。翻訳した詩をクラウディアに見せると、彼女はこれを出版したいと言ってくれたのです*1。そしてドイツに渡ってから5年後の1987年、初めて本を出しました。ですから正確に言うと、自分の意志でドイツに残ったわけではありません。自然にこうなったんですね。「本をもう1冊書きたい、書いたらまた次の」という感じで、気づけば長い時間が経っていました。

*1 日独バイリンガル詩集『Nur Da Wo Du Bist Da Ist Nichts―あなたのいるところだけなにもない』(1987年)

表現の自由- 解放の手段としての外国語

プラープダー:私はアメリカに11年住んでいますが、英語で書く自信はまったくありません。言葉は毎日使えばすぐに上達するので、話すほうは問題ありませんでした。でも書くことは別です。私は作家として、言葉については一定の自信を持たなければならない、最低でも自分が書いた文章の良し悪しを自分で判断できなければいけないと思っていました。多和田さんはドイツに渡ってから、わずか2年でドイツ語の執筆を始められています。自信があったのですか?

シンポジウムの写真 1

多和田:自信があったのではなく、ドイツ語が本当に好きだったからだと思います。ドイツ語で書くと、いつも驚きがあるんです。この言葉自体がパズルみたいなものというか。言葉にはそれぞれ歴史があります。言葉というものは、ただの自己表現のツールではなくて、一緒に仕事をするパートナーのようなものです。言葉を通じて、自分がより大きくなれる。

プラープダー:つまり言葉自体に興味があったのですね。実際に小説を書けると思えるようになるまで、長い時間がかかったのですか?

多和田:ドイツ語で初めて書いた散文は『ヨーロッパの始まるところ(Where Europe Begins)』です。私が日本を出て、シベリア鉄道でヨーロッパに向かった旅についての短編集で、実体験に基づくショートストーリーと幼少期の記憶で構成されています。この本をドイツ語で書いてみると、自分の両親について自由に書けることに気づきました。すごく新鮮でした。両親のことを母語で書くと、当人たちが読めてしまうので書こうとは思わないですよね? 母語で何かを書く時には、そんな自己検閲の意識が働きます。それが外国語だと何でも書けてしまうと。

プラープダー:文学作品を書くという意味において、ドイツ語を使うなら編集者のサポートが必要とは思いませんでしたか?

多和田:そうでもないですね。自分は書きたいように書いて、後は編集者に任せるだけ。私自身としては、助けが必要とは思いませんでした。ただ、提案はしてもらえますよね。「これはかなり違和感があるけど、それでも残したければ自分で決めていいよ」みたいな。ネイティブスピーカーにとっては何が自然で、何が不自然なのかがわかる、いい経験でした。自分の文章を毎回手直ししたいわけではありませんが、そういった違いは学びたいといつも思っていました。