ASIA center | JAPAN FOUNDATION

国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
心と心がふれあう文化交流事業を行い、アジアの豊かな未来を創造します。

MENU

フィリップ・チアが語る、映画プログラマーとしての過去・現在・未来

Interview / 第29回東京国際映画祭

異なる分野での経験が活かされた、プログラマーとしてのキャリア

松本正道(以下、松本):どのようなことがきっかけで、プログラマーとしての仕事を始められたのでしょうか。

フィリップ・チア(以下、チア):1980年代に唯一映画のプログラミングを行っていたのが、シンガポール・フィルム・ソサイエティーという団体でした。当時、私は新聞の映画批評家として6年ほど映画批評を書いていたのですが、1987年にシンガポール国際映画祭がスタートした時、シンガポール・フィルム・ソサイエティーから「映画祭に参加しないか」と声を掛けられたのです。彼らは、私がそれまで書いてきた映画の批評を読み、私の持ち味を分かっているつもりだったのでしょうね。その見当が間違っていたということが、のちに明らかになるわけなのですが……。

彼らには、私がメディア業界にいたことから、新しく発足する映画祭の広報部分で役に立つのではないかという思惑があったようですが、その部分についてはある程度正しかったと思います。メディアでの経験を通じて、どういう切り口で映画祭の作品を売っていけばいいのかということに対する感覚は、ある程度身に付いていました。
元々私は熱狂的な映画ファンでしたし、映画の批評も書いてきましたが、プログラマーの仕事については、実際に業務を行うことで学んでいきましたね。海外の映画祭に赴いたり、様々な人と出会っていったり、試行錯誤を重ねながら獲得していったことが多いと思います。

もちろん失敗もたくさんありました。私が身を持って学んだことの一つは、<誰かから提供されただけの映画を上映してはいけない>ということです。多くの映画は、その土地の文化に根ざしているので、自らその国に足を運んでその文化や土地を知ることは非常に重要だと思います。プログラマーとしての判断には、その映画がどういう文化の中で育ってきたものなのかということを強く意識する必要があると、私は考えています。

松本:シンガポール国際映画祭は、どのような経緯でスタートしたのでしょうか。

チア:創設者は、ジェフ・マローンというオーストラリア人の建築家です。この人は、1970年代にオーストラリアの映画界で起きた“オーストラリア・ニューウェーブ”の中で重要な役割を担った存在で、フィリップ・ノイスの映画のセットを作っていたり、ピーター・ウィアーの学生時代の初監督作品の主演でもありました。
彼は、シンガポールとオーストラリアに何か共通点を見い出したようでした。映画の歴史を例にとると、シンガポールでは、過去に15年間ほどまったく映画が制作されなかった時代がありましたが、オーストラリアでも同じように空白の期間があったと聞いています。

彼が考えたのは、「何かを始めれば、人を巻き込んでいくことができる。そこに場が生まれる」ということでした。オーストラリアでは、『Wake up in Fright』という映画がそのきっかけになったのですが、この映画が作られたことによって、皆がこれを見て、「自分にも映画が作れるかもしれない」と思う、そんなインスピレーションの源になるような出来事があったのです。
ジェフは、シンガポールでも映画祭をスタートすれば、やがて映画を共有する文化が生まれるのではないか、と考えたようでした。

松本:プログラミングする上で大切にしていることは何ですか?

インタビュー中の松本正道氏とフィリップ・チア氏の写真

チア:シンガポール国際映画祭のことに話は戻りますが、第1回目の映画祭は、アメリカのミルバレー国際映画祭の協力の下に上映プログラムを作りました。この映画祭は、アメリカ人の力添えによって始まったというわけです。

そして、映画祭が2年目を迎えた時、私は創設者のジェフにこう問いかけました。「これはアジアの映画祭じゃないか。私たちを“アジアの映画祭”たらしめるものは何なのか」と。ハリウッドのプログラムが、そのままシンガポールで上映されているというのは、おかしい気がしたんです。特に当時のアジアでは、国際映画祭はほとんど無かったので、“我々は一体どこから来たのか”ということをもっと示していくべきではないか……と訴えかけました。幸いなことに、ジェフは、私にアイデアを実現させる自由を与えてくれました。こうしてシンガポール国際映画祭は、アジアの上映プログラムを推進するようになっていったのです。

3年目を迎える時には、シンガポールもその一部分である東南アジアの映画を称えるべきではないかと強く思い、それからは、東南アジアの歴史的な映画監督を毎年一人特集するレトロスペクティブなプログラムを毎年開催するようになりました。

じつは、私は映画制作について勉強したことはなく、元々は社会福祉を勉強していたんです。社会福祉では、傾聴することが非常に重要です。私はそこで、人の言葉に耳を傾ける方法を学び、それがプログラミングにつながっています。
やがて映画の仕事をするようになり、プログラミング会議に数多く出席してきましたが、多くの場合、自分の意見を主張する人たちの言葉で溢れています。“私はこう考える、そしてあなたはこう考えるべきだ”という声が蔓延するような会議が多いように思います。

しかしながら、映画の批評の基本とは、様々な国から自分の元へとやってきた映画が語りかける声に、どのように耳を傾けるかということではないかと思うのです。この現代において、私たちは聞くという行為を忘れてしまったのではないでしょうか。

松本:非常に興味深い話ですね。映画監督の是枝裕和さんに、映画美学校で講師をしていただいた際、最初に話されたことが“ドキュメンタリー作家に一番必要なものは、話を聞くという行為だ”ということでした。

チア:私もその技術を失ってないといいのですが。