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国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
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ナショナリズム、言語、歴史:シンガポールにおける「書く」ことのポリティクス

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

「SG50」とシンガポールにおけるナショナリズムの高揚

―今回の横浜行きはいかがでしたか?

アルフィアン・サアット(以下、アルフィアン):とてもおもしろかったですよ。今回が初の訪日だったのですが、単なる休暇で日本に行くことはまったく考えたことがありませんでした。行くのであれば、ぜひアーティストの方々にお会いして、ツアーガイドから得られるのとは異なる種類の知識を得たいと常々考えていたのです。今回はたくさんのアーティストにお目にかかることができて、非常によい機会になりました。TPAM2016で多くの東南アジアのアーティストに会えたこともよかったですね。『Baling』という作品を上演したマレーシアのファイブ・アーツ・センターのメンバーにも会いました。今年のTPAMで一番気に入った作品のひとつです。なんというか、マレーシア・シンガポール地域の人間として誇らしかったですね。

―マレーシアとシンガポールの関係は独特のものがありますからね。地理的に隣り合っているというだけではなく、シンガポールが1965年に「追放」されるまでの数年間はひとつの国だったわけですから。2015年はシンガポールにとって特別な年でした。マレーシアからの独立50周年ということで、「SG50」というかけ声のもと年間を通じてお祭り気分が横溢していました。建国の父であるリー・クアンユーが3月に亡くなったことがそこに影を落とし、さらには9月に総選挙が実施されたことで落ち着かない気分が続きました。
こういう一種特別な雰囲気は、シンガポールにおける言論の状況にも相当の影響を与えたように思います。アルフィアンさんはどうご覧になっていましたか?

インタビューに答えるアルフィアンさんの写真

アルフィアン:ナショナリズムが高揚したことは確かです。それによって、シンガポールにおける言説は非常に単調なものとなり、異論を挟む余地がなくなったように感じます。公の場ではある特定の種類の考えを表明することしか許されないという感覚があったのです。一方で、「これは我々アーティストへの神の恵みだ」とも思いました。私たちの多くはこのような流れに乗ることを拒みましたが、それによって否応なしにノスタルジア、ナショナリズム、個人崇拝といった問題に批判的に取り組まざるを得なくなったのです。こうした状況が発生したおかげで、対抗的、あるいはオルタナティブな言説を作るための題材が私たちに与えられたといってもいいでしょう。

ただ、流れは容赦ないもので、ほとんどすべての国民を押し流していました。多くの人が異論を封じ込めろと叫んだのです。総選挙における与党人民行動党の地滑り的な勝利もそのような抑圧的な雰囲気をつくり出すのに一役買いました。このような、ナショナリズムに基づく神話形成のプロセスの犠牲になった人たちもいました。例えば、ドキュメンタリー映画作家のタン・ピンピンです。シンガポールから海外に政治亡命した人々を扱った彼女の映画は上映禁止となってしまいました。

―あなた自身も、リー・クアンユーが遺したものの再評価を巡って論争に巻き込まれましたね。主要紙「ストレーツ・タイムズ」があなたのFacebookの書き込みを引用し、「劇作家アルフィアン・サアットがリー・クアンユーの遺産に疑問を投げかける」という題で記事にしていました。2015年3月27日、つまり彼の死去から4日目のことでした。

アルフィアン:ええ。あれは、リー・クアンユーへの批判的な見方は、どんなものでも押さえつけてしまおうとする動きのひとつでした。著名な人物が亡くなった時というのは、彼が遺したものを評価するのに最適な機会であると同時に、最悪のタイミングでもあるということです。彼の生涯の記録が完結したわけであり、もはや過去の自分の立ち位置を修正してしまうこともできなければ、過ちを詫びることもできないという意味では最適です。ただし、国中が喪に服すという雰囲気の中では、批判ではなく賞賛をという態度があまねく広がり、それに背くものはいかなるものでも「尊敬の念を欠いている」として沈黙させられてしまう。その意味では最悪なわけです。

この時に起こっていたことは、「死者にむち打つことはするな」という言い方を借りた検閲に他なりません。実質的な議論などというものは存在しなかったのです。こうした検閲に手を貸した人々の大部分は、リー・クアンユーの思想や政策について批判的に検討した言説に接したことがなく、具体的な論争に加わることができませんでした。だからこそ、理性的な議論を封じ込めるために、彼らは手近に転がっている感情的な言葉に頼らざるを得なかったのです。

―それが、あなたが2015年に『ホテル』という作品を書いた理由なのでしょうか。シンガポール国際芸術フェスティバルがコミッションし、劇団ワイルド・ライスが制作したこの作品はシンガポールの100年に及ぶ歴史を扱っていました。

舞台の写真1

HOTEL (c)W!LD RICE

アルフィアン:『ホテル』という作品は、SG50へのひとつの反論として企画しました。「歴史は他にもたくさんあるはずなのに、SG50というオフィシャルな歴史だけを語るということにどういう意味があるのだろうか。そうした歴史のうちのいくつかは、まったく解決がついていないのに」と問いかけてみたかったのです。テレビ番組やドキュメンタリーで一年を通して再生産され続けたSG50の物語には欠けたところがある。それがクリエイティブ・チーム―共同演出のアイヴァン・ヘンとグレン・ゴーイ、共同で台本を執筆したマルシア・ヴァンダースターテンと私―の共通の意見でした。歴史の流れのとらえ方にも作為があります。私は、独立についての考え方自体も非常にステレオタイプなものだと感じてきました。すべてを1965年に起こったことに関連させるのが通常の見方ですが、これは問題があります。というのは、シンガポールの独立には、まず1963年にマレーシアの一部として英国から独立し、続いて1965年にシンガポールが追放されたという2つの段階があったからです。私たちの独立の物語は、宗主国からの独立のための闘いという、よくある物語ではないのです。独立は革命のような暴力なしに達成され、闘争は見えない形で複雑な様相を呈していました。

『ホテル』はパート1で独立前の時期を、パート2で独立後の時期を扱っていますが、前後編に分けたのは、純粋に実際的な必要性が理由です。なにしろ、この作品はトータルの上演時間が5時間にも及びますので。私にとって、『ホテル』で扱った100年間は一続きの物語であり、独立というイベントによって分断されるものではないのです。

興味深く、また少し奇妙だったのは、パート1のチケットを買わず、パート2だけ見たいという観客が多かったことです。なぜだろうと思ったのですが、何人かの人たちが「えー、まあ、ほら、こっちは最近の話だから、自分たちにもよくわかると思ったんだよね」と言っているのを聞いて疑問が氷解しました。人々は昔々の話にはそれほど興味がなく、自分たちにまだしも関係があるのは最近の話の方だろうと思ったのです。

舞台の写真2
HOTEL (c)W!LD RICE
舞台の写真3
HOTEL (c)W!LD RICE

―「『ホテル』はオフィシャルなSG50の物語への反論だ」とおっしゃいました。具体的にはどのような形で「反論」が行われたのですか?

アルフィアン:私が常に関心を持ってきたのは、人間のストーリーとドラマを語ることです。いわばシンガポールの小さき人々の歴史、というところでしょうか。通常、歴史を語るときによりどころとされるのは偉大な人物の視点です。シンガポールでは、それはリー・クアンユーの視点でした。

自分自身の中に、大衆の視点からの歴史を語りたいという、はっきりした非常に強い欲求がありました。特に、社会の周辺に押しやられてしまっている人々の歴史に取り組んでみたいと思っていたのです。今日のシンガポールでいえば、ヨーロッパとアジアの混血であるユーラシアンと呼ばれる人々がひとつの例となるでしょう。1970年代から80年代にかけては、ユーラシアンが大挙して海外に移住するということさえ起こりました。その主な理由は、政府が導入した二言語政策でした。国内の各民族は、英語に加えて自らのエスニック・グループの言語を話すことが奨励されたのです。しかし、政府による「中国人、マレー人、インド人」というオフィシャルなカテゴリーにうまく当てはまらない人々は「その他」と呼ばれることになりました。これはユーラシアンのアイデンティティに深刻なダメージを与えました。彼らは独自の文化を持つ集団とは認められず、他のマイノリティとともに十把一絡げにされたのですから。

しかし、彼らがシンガポールの歴史、特に植民地時代の歴史においてはきわめて重要な部分を占めていたことは疑いようがありません。彼らはまた、アジア、ヨーロッパの様々な国々で特権的な地位を得ることも多かったのです。ちょうどメスティーソやムラートのようにです。それにもかかわらず、近代のシンガポールでは、マレーと中国の文化が混交した独自の文化を持つプラナカンと呼ばれる人々とともに、ユーラシアンは周辺に追いやられてきました。ここでの民族の枠組みにうまくフィットしないから、というだけの理由でです。

舞台の写真4

HOTEL (c)W!LD RICE