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エディ・チャフヨノ――ジョグジャカルタから世界へ

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

クロサワを観て、映画界へ

国際交流基金アジアセンター(以下、アジアセンター):チャフヨノ監督は、どのように映画に関心をもち、映画を作られるようになったのでしょうか。映画界に入られた経緯を教えてください。

エディ・チャフヨノ(以下、チャフヨノ):根っからの映画好きだったからです。子供のころから映画はよく観ていて、主にハリウッド映画や香港映画を観て育ちました。高校を卒業してから、初めて黒澤明監督の映画を地元のジョグジャカルタで観ました。たしか「黒澤明監督へ捧ぐ」という特集上映で、『七人の侍』(1954)、『生きる』(1952)、『白痴』(1951)、『まあだだよ』(1993)を観た記憶があります。黒澤監督の映画は人生を語っているようで、非常に感銘を受けました。ハリウッドや香港のアクション映画とは異質だったんです。これがきっかけで、自分で映画を学ぼうと思いました。当時、ジョグジャカルタでは質の良い映画を見つけることは簡単ではなく、映画の学校に行くことも考えましたが学費が高いので、結局そうはしませんでした。1999年にジョグジャカルタのインドネシア芸術大学に入学し、後に友人となり、監督・プロデューサーとなるイファ・イスファンシャー(Ifa Isfansyah)と出逢いました。

仲間と作った制作会社Fourcolours Films

チャフヨノ:大学在学中に、イファや仲間たちとフィルム・コミュニティを立ち上げました。初めて作った映画は、私が監督した『Di Antara Masa Lalu dan Masa Sekarang [Between the Past and the Present]』(2001)という短編です。この映画が国内で評価されたことで、次回作へ向け、かなり意欲が湧きました。このようにして2001年からイファと私はFourcolours Filmsを始めたんです。短編を多く手がけ、15本くらい作りました。資金調達にも注力し、インディペンデントで映画を製作できるよう努めています。『SITI』(2014)は、2009年に映画製作会社となったFourcolours Filmsが初めて単独で手がけた長編映画で、インディペンデントのフィルム・コミュニティから製作会社へと大きく成長したわけです。

アジアセンターFourcolours Filmsには、どのような人が所属しているのですか。

チャフヨノ:基本的には、イファ、ナリナ・サラスワティ(Narina Saraswati)と私が中心です。私の助監督をしたアディ・マルソノ(Adi Marsono)には、私たちから声をかけ、短編『Semalam anak kita pulang [Last Night Our Daughter Came Back Home]』(2015)を監督してもらいました。この作品はインドネシア国内でも賞を受け、2015年のシンガポール国際映画祭でも上映されました。このようにFourcolours Filmsでは、イファや私だけでなく、外部の監督とも共同で映画を製作しようと努めています。他には、ウィチャクソノ・ウィスヌ・ルゴウォ(Wicaksono Wisnu Legowo)監督を招いて『Turah』(2016/イファ・イスファンシャーがプロデュース)という長編を製作し、2016年のシンガポール国際映画祭のアジア長編映画コンペティション部門でスペシャル・メンションを受賞しました。

孤立した女性を描いた『SITI

アジアセンター:『SITI』の構想は、どのように始まったのでしょうか。

映画のスチル画像
エディ・チャフヨノ『SITI』(スチル)2014年

チャフヨノFourcolours Films単独では長編映画の経験がなかったので、プロデューサーのイファと監督の私は、自分たちの理想を基盤にしつつ、この映画を作り上げていきました。予算はたったの10,000ドルでした。地元で、警察が閉鎖したカラオケバーがあるとか、アルコールの過剰摂取で亡くなった女性がいるという話を耳にして、そのような実際にあった出来事をベースに脚本を書くことにしました。ジャワの社会には、男性と平等に扱われない女性を取り巻く問題が数多くあり、夫婦間でさえそのような問題が起こります。だから私はこの映画で自由というメッセージを発信したかったんです。
こうして主人公シティの着想を得ることができました。若い彼女は、半身不随の夫、幼い息子、そして義母と暮らしている。夫の借金返済のため、昼はスナックを売り、夜はカラオケバーでホステスとして働いている。しかし、シティがカラオケバーで働くと決めたことに、夫は本心では賛成していない。けれども、シティには他に稼ぐ手段がない。これはシティにとってはジレンマです。そして、彼女はある警官と恋に落ちる。このように私は、シティを抜け出す術のない状況に置いたのです。

映画のスチル画像
エディ・チャフヨノ『SITI』(スチル)2014年

アジアセンター:10,000ドルという低予算で、実際どのように『SITI』を作ったのですか。

チャフヨノ:撮影はほぼ1週間でした。この映画が白黒なのは、スタッフも小規模で、照明を借りる費用もなかったからです。ただ、私が白黒を選択したのは予算だけが理由ではありません。シティの生活がカラフルなものではなかったからです。全てが白と黒だけで表現できるわけではありませんし、シティというキャラクターにもグレーの部分がありますが、シティには白黒がなじむと思ったので、創造性の面からも白黒を選択しました。また、スクリーンサイズをスタンダードサイズにしたのは、シティの人生に対する視野が狭いことを反映しています。

アジアセンター:なぜモノクロを選択したのか不思議に思っていたので、理由を聞いて納得しました。

チャフヨノ:脚本を書いた当初、『SITI』は「Dewi」というタイトルでした。Dewiは「女神」を意味するのですが、イファが「もったいぶっている」と言って、賛同してくれなかったんです。代わりに彼は「シティ(Siti)」という名前を提案してくれました。「母なる大地」という意味です。全てを引き受けているシティのキャラクターと重なり合うと思いました。それにイファの母親の名前がシティなんです。だからタイトルについて不満はなく、聞いた瞬間に気に入りました。シティは、インドネシアでは一般的な女性の名前でもあります。