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国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
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スティラット・スパパリンヤー――ドアをたたくこと

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

アーティストになる

「人と違うことをするわ」

藤岡朝子(以下、藤岡):まずはお礼から。2016年12月にアジアン・カルチャー・ステーション(以下、ACS)で私の上映イベントを主催していただきました。土本典昭が監督した1964年の日本ドキュメンタリー『ドキュメント・路上』を上映し、地元のアーティストら来場者と出会うことができました。とても居心地のいいスペースで、お茶を飲みながら芸術に遭遇し、さまざまな人たちと交流することのできる場でした。地域コミュニティの文化を育てるのは社交できる空間なんですね。良い機会をいただき、感謝しています。ソムさんは、文化事業の仕掛け人でもあるけれど、まずはアーティストですよね。どうやって芸術家になったのか、からお聞きできますか。

スティラット・スパパリンヤー(以下、ソム):14歳のときにアートについて考え始めました。その前までは、天文学者になりたかったのです。星が大好きだったので。でも学校で、他の女の子たちが科学者志望、と言っているのを聞いて、「私は違うことをするわ」と宣言したのです。

藤岡:人と違っていたかったのですね。

ソム:でも何をどう始めたらいいのかわからなかった。美術大学については聞いていました。テレビの連続ドラマの登場人物にインテリア・デザイナーという職業の人がいました。雑誌を読みこんだり、どうやったらアーティストになれるか、先生に聞いたりしました。そんなところから方向性が定まったのです。

藤岡:では絵を描くのが好きだったとか、アートを作るのが好きだったとかではなく、アーティスト、ということ自体に魅力を感じたのですね。

ソム:他の子と比べると絵はうまくない方でした。でもアートなら遊ぶ自由があるんだ、と気づいていました。そのことに納得して、技術はあとからでした。両親は自分たちのような教師になってほしかったようですが、私は芸術家になりたい、とはっきり宣告しました。結局賛同してくれたかはわかりませんが、私を止めることはできなかったんですね。

インタビューに答えるスティラット・スパパリンヤーさんの写真

藤岡:止められなかった? すごいですね。

ソム:私はチェンマイの隣の県の出身ですが、学校は美術を重視しないカリキュラムでした。少なくとも美大に願書を出せるほどではありません。そこで「若者向けに美術教室を始める」と言っていた地元のプロの美術家を訪ねました。実際は本気で言っていたわけではなかったようです。それでも私は、お宅を訪問し門戸をたたいて「美術教室をぜひ受けたい。開設してください」と要請を続けました。幸い彼は、教えていたチェンマイ大学美術学部の別の教授に頼んでくれて、毎週日曜日に教えを乞うことになりました。とてもラッキーでした。

藤岡:あなたの粘りもすごいですね、ドアをノックし続けるなんて! 当時のタイはどういう感じだったんですか?

ソム:振り返って思うのは、当時が平和で民主主義の機能している時代だったということです。ちょうど大学に入学した1992年には、チェンマイ・ソーシャル・インスタレーションという素晴らしい国際フェスティバルが始まったところでした。大勢のアーティストがチェンマイ市内あちこちの公共空間で作品づくりに招かれました。

藤岡:パブリック・アート?

ソム:当時、チェンマイにアートスペースなるものが全くない中、実験的な芸術が始まったのです。東南アジア、ヨーロッパ、それから日本から集まったアーティストたちは、公共空間を利用してさまざまな表現をし、社会に対して意見表明をしました。東南アジアのアーティストの中には、初めてパフォーマンス・アートを試みた人もいました。

メディアへの関心

藤岡:その後のアーティストとしての成長は?

ソム:チェンマイでは彫刻と絵画を勉強しました。それしかなかったからです。でもその後、新聞、ラジオ、テレビのようなマスメディアに興味が出てきました。小型のHi-8ビデオカメラを買って、遊んだりしました。当時の先生が、こういうデバイスを使うことに寛容だったので助かりました。たぶん使い始めたのはクラスで私が最初でした。インスタレーションのようにビデオと絵画を同じ空間に展示し、その展示会場でミュージシャンに生演奏をしてもらいました。まるで「ライブ・インスタレーション」でした。そのころから、絵画や彫刻や版画などの勉強は続けたくない、と思うようになっていました。芸術表現の新しいツールをいろいろ学びたいと思ったのです。私は映画を見たりラジオを聞くのが好きなのですが、メディアこそが人々に大きなインパクトを及ぼしているのではないかと考えました。そこで「そんな道具をアートに利用してはどうか?」と思うようになったのです。

藤岡:確かに、メディアは私たちの生活に大きな影響を与えます。

インタビュー中の藤岡朝子氏の写真

ソム:大学を卒業してからプロのタイ人アーティストの手伝いをする機会をもらうと、サウンド・インスタレーションに興味を持ちました。建物の空間設計を利用した、音響とパフォーマンスを考案し、会場依存型の作品を作りました。すると、ドイツ人の教授から「ドイツでメディア・アートを学ぶといい」とアドバイスがありました。いただいた情報を見ると、外界にはまったく異なる世界があるのです。行きたくなりました。そこで海外渡航が目的になりました。ドイツ語を勉強し、メディア・アートのコースがあるほぼすべての学校に願書を送りました。2年後、ライプチヒに行くことになったのです。海外は初めて、しかも一人きりです。結局、ずいぶんと長い滞在になりました。

外国に行く

ライプチヒの日々

ソム:それまでの人生と全く違うことばかりでしたが、帰りたいとは思いませんでした。裕福な家柄出身の友達の中には、2ヵ月で「もう帰りたい」と言い出す人もいました。私はと言えば、何もありません――奨学金も、助成金もない。家族には、滞在の最初の6か月だけ支援してほしいと頼みましたが、そのあとは一人でやっていくと約束しました。実は少し意固地すぎたかもしれません、人生は楽なものじゃありませんでしたから。

藤岡:でも意志が強かったのですね。

ソム:しかも片道切符しか買っていませんでした。自分に厳しくしたかったのです。「何があっても留まらなくては。何があってもオープンな姿勢で受け止めなくては」と自分に言い聞かせていました。

藤岡:ライプチヒでは発見はありました? 人として変わりました?

ソム:いろいろな意味で変わりました。見知った世界と全く違っていましたから。例えば、町中を歩いていて、商店のドアが閉まっていれば営業時間外、と思っていました。でも実はそうではなく、お店は開店していてもドアは閉まっているんです。

藤岡:ドイツらしいですね。

当時のドイツとタイの違い

ソム:私の国タイでは、営業中の商店はドアを開けているのです。でもライプチヒでは閉まっていた。しかもドアは強く押さないと開かない。これは私のものの見方を変えました。外国では私の経験してきたような人や文化や暮らし方は前提として通用しません。異なる文化には異なる暮らし方があり、相違を意識しながら、自らを固定観念から解放しなくてはいけないと気づきました。
ドイツではまた、自分のルーツに対する関心が生まれました。それまでタイや隣国を旅していませんでした。ドイツでは、東南アジアについて質問されても答えられず、気まずい思いをしました。
そこで2002年にタイに帰国した時は、東南アジア全土とタイを旅行しなくては、と思うようになっていました。ちょうどラッキーだったのは、メコン流域のタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、中国南部に焦点を当てたアート・プロジェクトが動いていた点です。各アート・シーンからおもしろい人たちがチェンマイに招かれ、作品展示をしていました。彼らとのコラボレーション・プロジェクトを通して、隣国を知るようになったようなものです。

藤岡:当時、中国の雲南省で映像人類学を学んでいた中国人の友人たちがチェンマイやベトナムを頻繁に訪れていたのが思い出されます。当時はご自分も作品作りを?

ソム:最初はどちらかというとアシスタント・キュレーターでした。プロジェクト304の創設者で現在、バンコクのジムトンプソン・アートセンターの芸術監督であるクリッティヤー・カーウィーウォンというインディペンデント・キュレーターと出会い、チェンマイで一緒に仕事をするようになりました。彼女のプロジェクトはすごくおもしろくて、東南アジア地域のたくさんの業界人と知り合う機会を得ました。住まいも彼女とシェアハウスしました。彼女からはキュレーション、マネージメント、ネットワーキングについて多くを学びました。そのうちに講義をするようにもなりました。確か1~2年たってから、プロのアーティストとして活動するようになりました。それまでは、学ぶことも多いから、人の手伝いだけでも十分楽しかったのです。