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セノ・ジョコ・スヨノ&サマンサ・リー――フィリピンとインドネシアにおける舞台芸術のジャーナリズム

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

インドネシアの事例:雑誌『テンポ』

藤原ちから(以下、藤原):今日は、異なるバックボーンを持つセノさんとサマンサさんのお話を楽しみにしています。私自身、いくつかのアジアの国で仕事をしていますが、各地の舞台芸術の状況についてまだ十分に理解できているわけではありません。おそらく他の日本のアーティストやジャーナリストにとっても、知識はまだ限られているのが現状だと思います。

そこで今日は、フィリピンとインドネシアの舞台芸術に関するジャーナリズムの状況について語っていただきたいと思います。あくまでも主観で結構ですので。私自身が日本を代表できないように、おふたりもまた、それぞれの国を完全に代表することはできないでしょうから。

セノ・ジョコ・スヨノ(以下、セノ):私は『テンポ』という雑誌の編集者をしています。政治に関わる内容がメインの雑誌ですが、私は芸術文化部門の編集主幹として、毎週、記事を掲載しています。例えばこんなふうに[と誌面をパラパラめくりながら]。これはインドネシアの有名なダンサー・振付家であるサルドノ・クスモについての記事を12ページにわたって書いたものです。シンガポール国際芸術祭で、彼のこれまでの作品を取り上げる回顧特集が組まれていたからですね。

藤原:とても長い記事ですね!

セノ:『テンポ』は芸術文化欄にかなりのページを割いているんです。インドネシアでは芸術専門の雑誌がないので、こうして一般誌の中で芸術文化のページをつくるしかないんですね。
あと他の個人的な活動としては、インドネシアン・ダンス・フェスティバルIndonesian Dance Festival)のキュレーターも務めていまして、その全てのダンス・パフォーマンスについても記事を書いています。

藤原:『テンポ』で記事を執筆されるようになったのはいつ頃からですか?

セノ:約20年前になりますね。パフォーマンスについての記事がメインですが、ビジュアルアートについても書きます。伝統的な作品の記事もありますが、特にコンテンポラリーなアートに焦点を当てて書いています。

インタビューに答えるセノさんの写真

藤原:同じインドネシアでも、ジャカルタとジョグジャカルタでは芸術文化のシーンが分かれていると聞いたことがあります。実際どうなのでしょう?

セノ:確かに、ジョクジャカルタのほうがジャカルタよりも小さい町ですから、芸術家同士の関係はより緊密です。インドネシアでは3都市に芸術大学があり、ジャカルタにはジャカルタ芸術大学(Institut Kesenian Jakarta)、ジョグジャカルタにはインドネシア芸術大学(Institut Seni Indonesia Yogyakarta)、それからバンドンにあるバンドン工科大学(Institut Teknologi Bandung)にも芸術科がありますね。

藤原:では『テンポ』は、その3つの都市で行われる芸術活動をフォローしているんでしょうか?

セノ:インドネシア全域です。ジャワ島、バリ島、カリマンタン島だけではありません。

藤原:なるほど……。例えば日本だと、コンテンポラリーな芸術文化作品の多くが東京でつくられて、情報もそこに偏る、という現状が長らく続いてきました。京都をはじめとしていくつか他の都市があるのは事実なのですが、舞台芸術が様々な場所で生まれていることが可視化される、という状態にはまだなり切っていないように思うんですね。その萌芽は感じられるのですが。

セノ:もちろん、インドネシアでもそういう中央集権的な感じはあります。特にコンテンポラリーな芸術については、ジャカルタ、ジョグジャカルタ、バンドン、この3つが3大拠点となっていますね。

フィリピンの事例:オンライン・メディアの台頭

藤原:続いてサマンサさんに伺いたいのですが、まず、ご自身は主にどういった活動をされているのでしょうか。

サマンサ・リー(以下、サマンサ):私はインディペンデントな映画作家で、またCNNフィリピンでもマルチメディアの編集者として働いています。ただし私の仕事はオンラインのメディアに依拠していて、紙媒体にはあまり関わっていません。フィリピンの芸術についての記事の掲載は、新聞や雑誌など、まだまだ昔ながらの紙媒体が中心ですね。というのは、フィリピンの人々はまだ伝統的な絵画、彫刻、演劇、ダンスといったものを楽しんでいますから。

私はメディアでの活動歴が、セノさんのように20年もありません。まだオンラインで2年です。ですが、オンラインのジャーナリズムも私自身もまだとても若いメディウム(媒介物)であると考えれば、今は、歴史の浅いその形態について、気づきが増大するチャンスのように思うのです。

例えば、あなたのノートパソコンにはカルナバル(KARNABAL=フィリピンのマニラを拠点とするコミュニティアートのフェスティバル)のステッカーが貼ってありますね。

写真
藤原ちから氏のノートパソコン(下部)の端にあるKARNABALステッカー

藤原:ああ、はい、これですね。私はカルナバルに2015年から参加しているので。

サマンサ:私はカルナバルのような前衛的なフェスティバルに個人的に興味があり、そのような種類の話題についてオンラインで記事を掲載しているんです。ご承知のように、カルナバルのような新しい動きは紙媒体では取り上げられにくい。でも私のようなジャーナリストなら、他のあらゆる形態のメディアを使って記事を掲載することができます。私はこうした紙とウェブの落差が必ずしも悪いことだとは思いません。なぜなら、こういったコンテンポラリーなショーを観る人たちは、そもそも紙媒体よりもオンライン・メディアのほうにアクセスするでしょうから。(カルナバルの芸術監督である)JK・アニコチェの『Battalia Royale』という作品は観ましたか?

藤原:映像では何度か観ています。Facebookで登場人物のキャラクターをつくったりと、まさにオンライン・メディアと相性のいい作品ですよね。

サマンサ:ええ。でも雑誌では、人々はあまりあの作品に興味を持てないかもしれません。だから、人々のニーズに合った形で情報を届けることが大事なんです。

藤原:なるほど。フィリピンでは伝統的な作品は紙媒体、コンテンポラリーな作品はオンライン・メディア、というふうに明瞭に分かれているんでしょうか?

サマンサ:扱うテーマやトピックにあまり差はないと思いますが、オンライン・メディアにアクセスした方が、選択肢が多いのではないかと感じますね。例えば、特定の候補者の政治的見解を知りたい時。紙媒体には印刷されているだけの情報しかありませんが、オンライン・メディアには選択肢が多くて、そこから好きなものを選んで読むことができますよね。そこが紙媒体との違いですし、オンライン・メディアのほうが民主化されている点でもあると思います。

藤原:日本では紙媒体のほうに情報が独占的に集まる時期が長かったのですが、その状況がだいぶ変わってきたと痛感します。

サマンサ:フィリピンでもそうだと思います。私は映像も扱いますから、カルナバルについても、インタビューを文章で執筆するのではなく、動画を撮る形にしました。舞台芸術のコンセプトを文章で説明するのは難しいこともありますから。

インタビューに答えるサマンサさんの写真

どの言語で書くか?

藤原:セノさんにお聞きしたいのですが、『テンポ』は紙の雑誌ですよね。日本では、紙媒体のほうが権威があるというイメージが長らくありましたが、インドネシアにおいてはどうなんでしょう?

セノ:インドネシアでも、だんだんとオンライン・メディアのほうが重宝されるという傾向になってきてはいます。『テンポ』は新聞、雑誌、デジタル、という3つの方法で運営しています。私はその3つともに記事を書いていて、特に芸術批評についての長い文章は雑誌版の『テンポ』に書きますね。

藤原:『テンポ』はすべてインドネシア語で書かれているんですか?

セノ:はい。ただし、記事の一部は英訳されています。

藤原:サマンサさんは、文章を書く時はタガログ語(またはフィリピン語)ですか、それとも英語ですか。

サマンサ:英語で書きます。

藤原:フィリピンでは英語が公用語ですけど、ローカルな言語がたくさんありますよね。例えばフィリピン人アーティストは、流暢な英語を喋る人であっても、感情的なことを喋りたい時には瞬時にタガログ語に切り替わったり、混ざったりする。そうなると、英語はやはりフィリピン人の感情的な側面から乖離しているんじゃないかとも思うんですけど、どうですか?

サマンサ:私たちの歴史において、教育制度を作ったのはアメリカ人です。なぜなら彼らに植民地化されたからです。ですから、英語は学者が使う手段であり、フィリピン語やタガログ語は表現のために使う、という考えがあるように感じますね。パフォーマンスをする時はほとんどがフィリピン語ですが、芸術について話したり作品を分析したりする時には英語になります。なぜなら、英語の方がアカデミックでフォーマルだという考え方があるからです。

タガログ語はマニラ周辺だけで話されている言語ですが、例えば南に行くとまた別の言語が使われます。そしてその地域では、その言語での歌があり、その言語での芝居が行われているんです。フィリピンは本当に数多くの地域によって成り立っていて、それぞれに独自の言語があるんです。ですから紙媒体に書くにしても、オンライン・メディアに書くにしても、自分の考えをあらゆる地域に行きわたらせる最良の方法は、英語を使うこと、なんですね。

インタビューの様子の写真

藤原:インドネシアもいくつかの島に分かれていますが、言語環境はどうなっているんですか?

セノ:特に舞台においては、ほぼインドネシア語が使われています。もちろん、例えばスンダの地域だったらスンダ語みたいに、それぞれのローカルな言語で作られる演劇もありますけれども。インドネシア語であれば、スマトラからパプアまで、すべてのインドネシア人が理解できます。
実は鈴木忠志さんのいる富山(利賀村)に15人程度のインドネシア人の俳優を集めて演劇作品をつくる計画*1  があり、私も現場に立ち会ったのですが、そこではバタック人はバタック語を、ジャワ人はジャワ語を、バリ人はバリ語を喋るというふうに、それぞれの地方語を使ってほしいと、鈴木さんからリクエストされています。

*1 国際交流基金アジアセンターと劇団SCOTの共催事業。劇団SCOTとインドネシア人俳優による『ディオニュソス』の国際共同制作。(原作:エウリピデス、構成・演出:鈴木忠志)。

国家間の人的交流

藤原:サマンサさんはオーストラリアでも活動されてきたそうですが、オーストラリアとフィリピンの交流は活発なんでしょうか?

サマンサ:両国間に公式な交流があるとは言えませんが、個人的な交友関係のような形では行き来があるかもしれません。例えば、私がフィリピン出身のJK・アニコチェに初めて会ったのはメルボルンでした。彼がそこで『Battalia Royale』を上演していたからです。そこでJKに出会った人たちが、その後フィリピンを訪ねたと聞いています。

藤原:なるほど、国家同士の公式な関係とは違う形で、個人的なレベルで国際交流が進んでいくというのはやっぱりどこにおいてもそうなのかもしれませんね。ちなみにフィリピンとオーストラリアは共に英語を公用語としていますよね。宗教的にも、もちろんフィリピン南部のミンダナオ島はイスラム圏であるとはいえ、その他の地域はキリスト教圏ですし、両国が繋がりやすいのかなとも思うのですが?

インタビュー中の藤原氏の写真

サマンサ:しかし文化に関してはかなり異なると思いますね。オーストラリアの文化はかなり欧米寄りですが、フィリピンは、例えば家族の重要性といった点についてはかなりアジア的であり、保守的だとも思います。だからオーストラリアのパフォーマーがフィリピンに来て、特定の地域の文化についての調節をせずにただ上演しても、あまりウケがよくありません。逆にフィリピンのメインストリームの演劇やパフォーマンスがオーストラリアに渡っても、伝統的すぎる、保守的すぎると受け止められるでしょう。ですから、言語や宗教が共通してはいるとはいえ、文化的には、両国のDNAにはかなりの隔たりがあります。

相通じるところがあるのは、アンダーグラウンドやオルタナティブなシーンに限られますね。例えば、マニラで観たバージョンの『Battalia Royale』は、作り手本人が感情をベースにしたと言っているように、たくさんの人が劇中で殺され、たくさんの人が泣き、演技もとってもハイでした。でもメルボルンで観たバージョンはかなり現実的にトーンダウンされていて、暴力性も少なく、感情よりも情報をまき散らすというもので、まったく異なるパフォーマンスになっていたんです。

藤原:国家を越えた関係という点では、インドネシアとフィリピンはどうですか? 宗教は違いますが、現代的なアートシーンにおいては両国での交流は活発なんでしょうか?

サマンサ:たぶん、そうした交流はこの対談の後で生まれます(笑)。

セノ:はは(笑)。日本とインドネシアのほうがまだ交流はあるかもしれませんね。例えば演劇では小池博史、鈴木忠志、佐藤信といった人たちがいます。さらには、とてもたくさんの日本のダンサーたちがインドネシアでコラボレーションしていますから。

サマンサ:おそらく、ある種のダンスや演劇においては、フィリピンとインドネシアにも共通項や類似点はあると、個人的には思います。しかし、どうやったらコラボレーションが上手くいくのかはわかりません。仮にただ一緒に併置したとしても、同じようなものになるだけでしょうから。

インタビューの様子の写真

宗教や政治による現場への影響

藤原:宗教の影響についてはどうでしょう?

セノ:インドネシアにおいては、宗教の影響はかなりありますね。特に伝統的な芸術では、地元の宗教や信仰に根差しているものはたくさんあります。

藤原:宗教によって表現が規制されるようなことは?

セノ:それはここ数年、社会問題にもなっていますが、イスラム原理主義がどんどん力を増してきていて、例えば彼らが共産主義の映画を批判したり、同性愛を非難したり、といった傾向が見られます。イスラム原理主義者が先導するまでは起こっていなかった傾向です。例えばあるグループが共産主義者たちを大量虐殺するという事件が1965年にあったのですが(9月30日事件)、それを扱った映画が小都市マランのカフェで上映された時に、イスラム原理主義のグループが脅して上映中止に追い込んだという事件が起きました。イスラム原理主義者にとっては、その映画が共産主義を肯定しているように映ったのでしょう。

藤原:イスラム原理主義の台頭は全世界的な問題ですが、インドネシアでも議論になっているんでしょうか。

セノ:人数的にはまだ少ないとはいえ、頻繁にデモを起こしたりして、社会問題になっていますね。

藤原:それこそ『テンポ』は政治を扱う雑誌だそうですが、読者はやはり政治的意識が高い人々ですか?

セノ:ええ、読者は政治に興味を持っていますし、特に『テンポ』は、政治的な意見において参考になる雑誌というステータスを獲得しています。

インタビューに答えるセノさんの写真

藤原:インドネシアの舞台芸術やビジュアルアートは、やはり現実の政治を扱ったものが多いのでしょうか。

セノ:どちらかというとそうですね。『テンポ』でもそうしたものについて書きます。でも、政治と直接には関係ない記事も私はたくさん書いていますよ。

藤原:フィリピンではどうですか? 例えば南部のミンダナオ島のことが気になります。ミンダナオの中心都市ダバオはドゥテルテ大統領のお膝元で、彼が市長だった時代にかなり強権的な政治体制をとって治安を良くしたとされていますよね。しかしその他のミンダナオ島のエリアは、立ち入るのは今でもかなり危険だと聞いています(このインタビューが行われた後、2017年5月に国軍とイスラム過激派の大規模な戦闘が発生し、ミンダナオ島全域に戒厳令が布告された)。芸術文化の面においても、ミンダナオ島のそれはマニラとずいぶん違うのでしょうか?

サマンサ:ええ。先ほど、日本では東京が芸術の中心であるという話をされていましたよね。私はフィリピン南部の方ではあまり過ごしたことがないのですが、ほとんどの芸術が首都マニラで作られているという感覚は確かにありますね。けれども、断言はできません。例えば映画については、地域ごとに独自の映画が撮られていて、それがマニラで上映されることは滅多にありません。言語が異なるという理由もあるんですけど。

藤原:舞台芸術については?

サマンサ:南の地域で作られる舞台作品があるのは知っていますが、メディアが取り上げるほど大々的にマニラに来ることはなかなかありません。地域によって芸術文化に関する情報にギャップがあるせいもありますが、アーティストに十分な移動資金がないという問題もありますね。だから地域から出られないという理由もあります。

藤原:フィリピンでは政治や宗教によって、表現の自由が規制を受けることはありますか?

サマンサ:それほどでもありません。しかし舞台芸術はほとんどのメディアにとって主流だとは考えられていないので、そもそも関知されていないんです。テレビにも出ませんし、映画にもなりません。だから政府も注意を向けません。つい先週、(マルコス独裁政権下の)戒厳令についての芝居が再演されました。それは暗に、現在の政治についても語っていたのです。しかし誰もそこに触れないし、誰も取り締まらない。上演そのものの存在を知らないからです。まあ、ある意味では、検閲の網の目にかからないのは良いことですけどね。どの作品にも、上演する自由が与えられていますから。でも、もしも、もっと規模が大きいか、メディアの注目度が高かった場合は、政府はきっと「上演するな!」と禁じるでしょう。

インタビューに答えるサマンサさんの写真

藤原:フィリピンでは2016年5月に、ロドリゴ・ドゥテルテ氏が大統領に就任しましたが、彼は麻薬戦争と称して多くの人々を殺害している疑いがあるなど、大いに物議を醸しています。おそらく今サマンサさんが仰ったのは、独裁者マルコスを英雄として埋葬したドゥテルテ政権に対して批判した上演のことではないかと推察します。ドゥテルテ氏に対するフィリピン人の評価は単純ではなく、非常に複雑なものだと感じますが、フィリピンのアーティストやジャーナリストはどのような反応を示しているんでしょうか。

サマンサ:歴史的に、1970年代はフィリピン芸術の黄金時代と呼ばれます。その頃はマルコスによる戒厳令がピークで、アーティストはみな政治に対する応答として芸術を生み出したのです。ドゥテルテが実権を握ったのはまだ去年の6月のことで、1年ほどしか経っていませんが、現在でもそうした(マルコス独裁時代の)歴史に基づいて、人々は芸術を政治への反応として読み取ろうとしますし、アーティストも実際そのように作品をつくっていると私は感じます。つまりそれらは現在に対する即物的な反応であると同時に、歴史的に息が長いものでもあるのです。

具体的には、1970年代の古い映画をリバイバルしたり、脚色したり、音楽を使ったりして、展開されています。例えば、マルコスによるミンダナオ島での虐殺を題材にしたドキュメンタリー映画『Forbidden Memory』が、2016年11月にマニラで上映されました。マルコスによって弾圧されていたこの映画はそこで陽の目を見ました。しかしその2~3週間後に、ドゥテルテ大統領はマルコスを英雄として埋葬し直したのです。

……つまり、良いことだとは言えませんが、私たちはすでに「歴史は繰り返す」と感じさせるような素材を持っています。あとはそれをどう料理するかです。

藤原:マルコスの「遺産」がまたフィリピンの芸術文化の歴史を複雑なものにしていますよね。フィリピン芸術高校(Philippines High School for the Arts)は夫人のイメルダ・マルコスが創設したと聞きました。

サマンサ:ええ。イメルダは映画館や文化センターなど、様々な芸術関連の施設に出資していますね。

藤原:先ほどから何度か話に出ているJK・アニコチェはそのフィリピン芸術高校の出身ですし、今はそこの教師も務めていますよね。つまりマルコスの遺産がリベラルなアーティストを生み出す土壌にもなっているという、なんとも皮肉めいた歴史がそこにはあります。なんにしても、芸術は政治と無関係ではいられないということですね。

インタビューの様子の写真