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『閉店のお知らせ』 黎紫書/及川茜 訳

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(マレーシア)

閉店のお知らせ

閉店することになりました。
店内の食品・日用品は、必用な方に無料でお配りします。

このお知らせは朝からドアに掛かったまま、昼になるのに誰にも気づかれていない。新型コロナウイルス対応アプリMySejahteraの二次元コードが印刷された政府通知と一緒に張り出されていて、その下には消毒液と体温検知センサーを置いた台があり、入って来た客はみなそこを通らなくてはならない。今朝店を開けてからマレー人の女性客が数人来たほか、インド系の少年も飲み物を買い、サングラスをかけた男がタバコを買ったし、汚い身なりの子供たちも菓子を買いに来た。誰も尋ねないので、彼も自分から説明することはなく、レジで金を受け取って釣り銭を出し、値札通りに金を受け取った。

客足が途切れると、彼は外に出てお知らせの札をいじり、真っすぐに直した。

告知の二行の文は彼が手で書いたものだった。今朝家を出る前に急に心が決まった。よし、そうしよう。段ボールの箱をばらし、真四角に切り取り、マーカーペンで二行の中国語を書きつけた。

一時的な衝動ではなかった。何年も前から店をたたむよう妻に言われていたが、彼は黙ったままずるずると来て、今日になってようやく決意したのだった。

「これから張り紙をしてくるよ。店の商品は全部いらんだろう」彼は長年連れ添った妻に言った。

妻は陶製の壺の中で、よいとも悪いとも言わなかった。

数えてみれば一年近くになる。妻は灰になって、骨壺に納められた。美しい壺は、墓所に安置されているはずだった。墓所はそう遠くないが――実は彼の家から一番近い墓地だった――それでも三〇キロ近くの距離があった。ここから行くなら、行政区をまたぐことになる。この非常時に行政区をまたぐのは大変なことで、三〇キロというのは天と地ほどはるかな距離だ。問題だと思った彼は、葬儀社の手配を断り、子供の勧めも取り合わず、流行が終息してからにしようと言って、骨壺を手元に置いていた。そのために客間のサイドボードを片付けてスペースを作り、妻をそこに安置していた。

そういうわけで彼は毎日その骨壺に話しかけることができたのだ。

閉店のお知らせを書いてしまうと、彼は店に出る準備をした。七月のことで、暑いったらなく、外にはむせかえるようなドリアンの香りがしていた。飼い犬は元気が戻ったようで、昨日から食欲が出てきたが、自分だけで留守番するのは嫌がり、無理して立ち上がると彼の軽トラにもぐり込んで、一緒に出かけようとした。

「阿旺(アワン)、下りるんだ!」

犬は車の中から振り返って彼を見たが、黒い眼が濡れて光り、喉を鳴らして、哀願するようだった。彼はつい、妻が病院の隔離病室で息を引き取る前に、帰宅を懇願したことを思い出した。看護師は許可せず、仕方なく彼と電話をつなぎ、携帯の画面越しに夫婦の対面を果たしたのだった。彼はその時動転していて、早く元気になるんだぞ、よくなったら帰れるからとひたすら叫び続けた。ビデオ通話の相手は喉を鳴らすばかりで、頬のこけた顔はほとんど呼吸器で隠されていたが、瞳だけは彼女のものだった。

妻の死後、飼い犬は何かを察したようで、急に元気がなくなり、以前より彼につきまとうようになった。妻がかつて裏通りで拾って来た犬で、当時はまだ乳離れしたばかりの子犬だった。数日前に病気だと気づき、獣医の診察を受けた時、何歳かと聞かれたが、彼は口をぽかんと開けて正確な数字を答えられなかった。妻が子犬を胸に抱いて帰って来た時の様子ばかりが思い出された。あの頃妻の髪はまだほとんど白くなっていなかった。

「少なくとも十五歳にはなっていますね」獣医は言った。

「人間の九十歳に相当します」そう言って、獣医は彼に壁に貼ってある数字が並んだ表を示した。

つまり、阿旺は相当な年齢で、楽観視できないということだった。彼は目の前がぼうっとなり、妻が確定診断を受けた時より受け入れがたい思いだった。もちろん当時の彼は妻が死ぬとは知らなかったが、今は獣医の言葉にほのめかされた意味をはっきり意識した。この犬に残された日々は限られている。

妻が亡くなった時、二人の子供たちは葬儀に駆けつけたが、その後で南と北に分かれてあわただしくそれぞれの家に帰ると、そのまま活動制限令に阻まれ、帰省がかなわなくなってしまった。この家には人間ひとりと犬一匹だけが残された。彼は電話で子供たちに阿旺のことを伝えたが、二人とも異口同音に、裏通りでもう一匹拾いなよと勧めた。あそこにはいつも野良犬がうろうろしているから。

子供たちは知らなかった。彼らの母が死んでからというもの、野良犬たちはもう来なくなっていることを。

何年もの間、犬たちは夕方になると裏通りに来て、彼らの家の勝手口の外で待っていた。錆びついた鉄の扉がギイと開かれると、家の女主人がよく混ぜたドッグフードと白いご飯の皿を持って、犬たちにほほえみかけた。ご飯だよ。

近所ではみな知っていた。この家の女主人が野良犬の群れを毎日寄せ集めていると。野良犬は全身汚れて、いつもどこかを怪我しており、あたりにはしつこい蠅が飛びまわっている。裏通りの向かいの住人は、しょっちゅうドアスコープからのぞいていたし、ぴったり閉ざされたブラインドを少し開け、うす暗い隙間から目だけのぞかせる子供もいた。暗がりに身を潜めている何匹もの黒猫のように。

妻は阿旺を飼うようになってから、ほかの犬が苦しむのも見ていられなくなり、最初は一、二匹に餌をやるだけだったのが、だんだんとこんな群れになった。しかしこのあたりの多くの住民は犬を憎んでいて、子供たちも棒きれで脅したり、祭日にはかんしゃく玉を投げつけたりしていた。地方自治体に依頼して野犬捕獲隊を呼び、裏通りで大騒ぎしたことも一度ならずあった。妻は身を挺してかばい、犬たちを逃がしてやり、隣人から罵声を浴びせられた。妻はただ作り笑いをしただけだったが、彼は腹に据えかねて飛び出して行って怒鳴り返し、あんたたちが放し飼いにしている猫だって悪事の限りを尽くし、人の家の庭に糞尿をまき散らしているだろうがと言った。どちらも口角泡を飛ばし、険悪になり、それから裏通りに出ると、こちらを睨みつける顔を目にせずには済まないようになった。

やがて招かれざる客が現れて、あちこちの家の猫が姿を消したというのも、彼のせいということになった。

彼は相手にせず、鼻息を荒くしたばかりだった。

その当時から妻は言っていた。あんたは、年を取るにつれてかんしゃく持ちになって、まったく雑貨屋なんか向かないから、店をたたんで隠居したらいい。彼は反対しなかった。彼らの住んでいる区画は、二並びの商店があるばかりで、雑貨屋はここしかない。以前は商売も繁盛していたし、それに近所の華人たちはとりわけここに集まって世間話をしたがり、毎日店を開けるとすぐに二人、三人と集まり、自分の腰掛けを持って来る者までいて、小声で何か言っては大笑いしていた。だがこの数年で、こうした親しい隣人たちは、子供について引っ越して行った者もいれば、年を取って体が利かなくなり、めったに外出しなくなった者もいた。彼の店はますます寂しくなった。子供は二人とも独立していたし、夫婦の蓄えもあり、売り上げが減るのは構わなかったが、長年この店に頼って暮らしてきたので、店がなくなったら手持ちぶさたになるだろうと思うと、ためらっている間に一年また一年と過ぎていった。

妻の死後、彼は一人では暮らしていけないと認めざるを得なかった。家の中がめちゃくちゃになったのは言うまでもないし、店の手伝いに長く雇っている女ももともと怠け者だったのが、年とともにますますひどくなり、目につかないところで悪事を働き、昨日はこっそりタバコを数箱盗もうとして、犯行現場を彼に押さえられたばかりだった。今度ばかりは彼は許すことはなく、出て行くように言い、もう来るなと告げた。小さな店ではあったが、やることはたくさんある。さらに大変なのは、この一年あまり政府が感染症対策の規定を大量に設けたことだ。このあたりの住民はふだんバイクに乗るのにもヘルメットをかぶらないくらいで、そんな規定など歯牙にもかけない。だが警察が本当にしょっちゅう調査に訪れ、ノートを出しては記録して罰金を取るようになると、彼は四六時中落ち着かない気がして、日によっては朝もわざと家でぐずぐずして店に行く気になれずにいる自分に気づいた。

今朝がちょうどそうだった。彼は手持ち無沙汰にバケツに水を汲み、骨壺を何度も磨いた。

「思い立ったが吉日だ」彼は骨壺に話しかけた。「今日にしよう」

「店の品物は全部人にあげてしまえばいい、それで片が付く」

店には阿旺にも思い出があると考えると、車から無理に下ろすのも気が引けた。店に着いて、彼はシャッターを開け、普段通りにパンと、玉ねぎやにんにく、じゃがいもの入ったかごをいくつか外に並べ、お知らせを張り出した。阿旺は店に直行して一回りし、出てきた時には二匹の子猫が後ろにくっついていた。ちょこちょこと歩きながらずっとみゃあみゃあ鳴き続け、何か阿旺に言おうとしているようだった。阿旺が二匹を連れて出て来ると、すぐに二匹の薄汚れた野良犬がどこからか現れ、近づいて阿旺に挨拶した。

彼は店で昼まで休まず働き、昼になって数軒隣のインド人の店で料理を包んでもらい、戻ってみると昨日帰ってもらった手伝いの女が店の前に立っていた。傍には痩せて手足の長いインド系の少女がいる。十二、三歳だが服のサイズが合っておらず、上着とスカートはぶかぶかだ。女は彼の姿を見てきまり悪げに笑い、少女はしゃがみこんで二匹の子猫と遊びだした。横で阿旺は警戒し、ずっと少女の手を鼻先で押し返そうとしていた。

女は許しを請いに来たのだった。彼はその手は知り尽くしていたので、取り合わずカウンターで食事を始め、彼女には悲しい顔でああだこうだと言わせておいた。口に出すのはほかでもない。もうしません、家では食べるものにも事欠く始末で、何年も勤めたのだから助けてくださいよ……繰り言をくどくどと並べ、追い払っても戻ってくる蠅のようだった。女がついに口をつぐんだ時には、彼は食欲を失い、口に運んだ飯も飲み下しかねた。半分以上残った料理には、魚も肉もあり、彼は店の外に行って阿旺にやった。ぶかぶかの服を着た少女は少し移動したものの、しゃがんだまま阿旺が食べる姿を見ていた。二匹の子猫も近づいて、半分になった魚を阿旺の餌からくわえ出した。

彼は外のお知らせを指して、女に言った。この店はもうたたむから、人は雇わない。これだけのことを何度も繰り返したあげく、女はようやく半信半疑で外に出て、自転車で去って行った。外にいた少女はついて帰らなかった。彼は尋ねた。おい、あの人と一緒に来たんじゃないのか?少女は首を横に振り、また口をへの字にして、意を決したように突然立ち上がると、視線を外の張り紙に向けた。

「おじさん」少女はマレー語で呼んだ。大きすぎてやや飛び出している目は、ずるそうだったが苦しげでもあり、さっき立ち去った女とどうも面差しが似ていた。彼は思わず警戒して、答えの代わりにあごをしゃくっただけだった。

「このお知らせ、字が違ってる」少女は言った。

彼ははっとした。その時、ちょうど卵売りの卸売商が通りかかり、お知らせを見るなり、手にした卵を置く間も惜しんで、外に止めたトラックに呼びかけ、車内の女を下りて来させた。この夫婦は彼と知り合いで、妻は当然大げさに騒ぎ立てたが、夫のほうは袖をまくって店に入ろうとし、彼に呼び止められた。

「字が読めないのか?必要な人にだけ持って行ってもらうんだ」

夫婦は欲と二人連れだったのが、彼が色をなしたのを見て、やや恥ずかしくなったようだった。去り際に口をとがらせ、ぶつぶつと文句を言った。お人よしにもほどがある、そのうち暴徒に襲われるだろうよ。

彼は言い返さず、二人が去ってから振り返ると、ぶかぶかの服の少女はまだそこにいて、さっきの場所で固まってしまったかのようだった。

彼は眉をひそめた。

「何を待ってるんだ?」

少女は大きく一歩踏み出し、手を伸ばしてお知らせを指した。

「字が一つ間違ってる」そのひとことは中国語で、発音は正確だった。彼は驚いた。「『必要』なのに、『必用』になってる」そう言って、少女は得意そうに笑った。あごをぐっと突き出し、口の中の歯が抜けた黒い穴を見せて。

それから少女はまたしばらく子猫と遊んでいた。彼は店に招き入れ、マーカーペンと切り取ったボール紙を渡すと、間違った字を修正して、全部書き直してくれと頼んだ。

「それから、このお知らせはマレー語でなんて書けばいいんだね?」彼は尋ねた。「ついでに書いてくれないか」

少女は承知して、カウンターに身をかがめて熱心に、一画ずつ木に彫りつけるように書いた。彼は見つめているうち、思わず笑いがこみあげてきた。少女に気取られないよう、ゆっくり外に出て阿旺の様子を見た。阿旺は道の脇に身を伏せて寝ていた。本当に眠っているわけではなく、目を閉じているだけだったのかもしれない。彼の気配を感じると、目を上げてちょっと見た。二匹の子猫はというと、母猫がどこに行ったかなど気にする様子もなく、阿旺のふところにもぐりこんで、体を丸めて気持ちよさそうに眠ったまま、彼がそこにずっと立っていてもさっぱり気づく様子はなかった。


黎紫書氏が作品の冒頭を中国語で朗読しています(1分15秒〜)。お楽しみください。