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『ニコラ、ロージー、マイケル、そしてサイモン』 エライザ・ビクトリア/大野拓司 訳

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(フィリピン)

ニコラ、ロージー、マイケル、そしてサイモン

ニコラは、相手が気づく前に、ステッキを持った男に目を止めた。その男が気づくと、ちょっとビクッとした様子だったが、マスクと濃い色のサングラスで表情は見えなかった。夕方6時だというのに、不可解にもサングラスをかけていたのだ。ニコラは男のステッキをチラッと見て、彼は目に障害があるのかしらと思ったのだが、今度は彼の方がニコラを見つめて顔色をうかがっているようだった。

「ああ!」と彼女が言うと、男はもう一度ビクッとしたように見えた。神経過敏な、小柄な男だった。
「ちょっと待って、出歩く時はマスクをつけることになっているんでしたっけ?」。規則が毎日のように変わるから、ニコラは事態に追いつけないでいたのだ。
男は首を振った。「外では求められていないけど、屋内では必要ですよ」と言って、彼は手にしていたフォルダーを差し出した。「この建物に住んでいるんですか?誰かが、これを落したんです」
その男はとても穏やかに話すので、言葉がマスクに籠ってしまう。ニコラは、彼のアクセントを完全には判別できなかったが、オーストラリア人の発音には聞こえなかった。ニコラは、フォルダーを受け取り、中の書類をパラパラとめくってロージーの名前を見つけ、手を止めた。
「何てことなの」とニコラは言った。
「どうかしましたか?」
「彼女がこれを落としたとでも言うんですか?捨てたの、それともどこかに置いて、そのまま忘れたのでしょうか?」
「それは、わかりませんけど……」
「でも心配ご無用」とニコラ。「これを私が受け取ったので」と続けた。

ニコラはインターフォンのところまで歩いていき、ロージーの部屋の番号を打ち込んだ。振り返ると、男がまだそこに立っているのがわかった。何かを待っているらしかった。
「どうもありがとうございました」とニコラは彼に声をかけた。「とても重要な書類です」。おやまぁ、謝礼が欲しいのかしら?男が立ち去らなかったので、彼女はもう一度、「ありがとうございました」と言った。
「よかった」。男はそう言ってうなずき、「おやすみなさい」と言い添えた。息を深く吸ってマスクをくぼませ、建物の正面階段の方へ向きを変えた。
話をする時に少しうなずく彼の様子が誰かを連想させたが、それが誰だったか、ニコラは思い出せなかった。

インターフォンから声が聞こえてきた。「はーい、どなた?」
「私よ」。ニコラはインターフォンのカメラに自分の顔が写っているのがわかったけど、入り口の明るい光の直射で顔は影に隠れていた。
「中に入れて、ロージー」
そこはハイソな高層ビルで、ロビーには気取ったシャンデリアが下がり、ドアに4301号室であることを示す豪華そうな刻字板がかかっていた。
ニコラはサイモンに、こういうところに本当に住める余裕があるかどうかを尋ねたことがある。それは去年のこと。世の中が変わってしまう前で、二人が借家の契約書にサインする前でもあったが、その問い掛けはサイモンを傷つけ怒らせてしまったのだが、そもそもニコラはそんな質問がよくできでたものだと思った。彼女は自分を何様だと思っていたのか。それに今、何が起きているのかを知るべきだった。

ロージーは、まったく何の荷造りもしていなかった。ニコラは居間に入った。ロージーはパソコンの前に座り、一週間、さもなければ一日中着っぱなしだったに違いないしわくちゃのパジャマ姿で画面を見たり、背後のダイニングテーブルの方に顔を向けたりしていた。
「もし私が歩いて自宅に戻る途中、警察官に止められたら、何て言えばいいの?」とニコラが口を開いた。「新しい住まいへの引っ越しを手助けしているとか、弱った人のお世話をしているとか?」
「警察は規制を緩めたわ」。ロージーは、パソコンの画面から目を離さずに答えた。「今はレストランの中にだって入ることができるのよ」
「あら、あなた、そうしたの?レストランでディナーをとったの?」。ニコラはフォルダーでパソコンのキーボードをぴしゃりとたたいた。「あなた、これを落したんじゃないの」
ロージーはフォルダーを脇に置き、パソコン画面を指差した。「これを見てよ」
ニコラはそのフォルダーを指して言った。「これって、あなたの新しい借家の契約書でしょ。6日以内に、この部屋を出るんでしょ。それなのに、テレビさえ売り払っていないじゃないの」
「ちょっと見てよ」
パソコンの画面には、ロージーとサイモンが引っ越しを祝うパーティーの写真が載っていた。二人がダイニングテーブルの後ろに立っている写真だ。そのテーブルの上は、シシグ*1やご飯、ルンピア、それにオーストラリアの小さな旗を刺した小ぶりのケーキなど、友人たちが持ち寄った料理で埋まっていた。
「どこか、違いに気づいた?」
「私のきょうだいが元気だったころの写真だわ」。ニコラは間髪をいれずに答えた。
ニコラは、ロージーの顔が寂しさでくしゃくしゃになるのを見たくなかった。ニコラは深いため息をついてソファに腰をおろし、「ごめんなさい」と両手に顔をうずめた。写真に向かって、「私、何を見ていると思う?」と問いかけた。
「写真に写っているテーブルと、この部屋にあるテーブルを見比べてみてよ」
写真のテーブルは、卓上が明るい色のオーク材でできたベニヤ製で、角が丸かった。ニコラは、そのことを知っていた。というのは、彼女はサイモンと一緒に、IKEAの割引券を使って同じテーブルを買ったからだ。店で一番安いダイニングテーブルだった。
部屋に置かれているテーブルは、それと同じもののように見えた。
「違いがわからないわ」とニコラ。
「もっとよく見て」とロージー。
ニコラはしっかり見きわめようと、立ち上がった。卓上は同じ明るい色だったが、頑丈そうな素材ではなかった。厚い板張りだった。
「これ、農家のテーブルって呼ばれているのよ」とロージーが言う。「素朴なつくりでしょ。ねっ、どう?」
ニコラはテーブルの端っこを持ち上げようとした。重かった。パーティクルボードではなかったのだ。本物のオーク材かもしれない。
「つまり、あなたは、ここから引っ越すはずの週に、サイモンが買ったIKEAのテーブルの替わりに重くて高価なテーブルを注文したって言いたいの?」とニコラが聞く。
「えっ何ですって?違うわ」。ロージーは怒っているかのように見えた。「今朝、目が覚めたら、このテーブルがすでにここにあったのよぉ」
ニコラは何も言葉にならなかった。そこで、ロージーはもう一度パソコンの画面を指差した。「だから、私がこの写真をずっと見つめていたのは、筋が通っていないからなの」
ロージーが話を続けている間、ニコラはじっと座っていた。「ほら、これって突拍子もないように聞こえるかもしれないけど、サイモンが病院に行く何週間か前、私たちはもっと上等なテーブルに買い替えることを考えていたの。でも、無垢材の農家のテーブルは見栄えがいいかもしれないけど、私たちには値段が高すぎて買えないわと言ったのよね」
ニコラは顔をしかめた。「そうなのぉ?」
ロージーはひと呼吸置いてから答えた。「だからね」。彼女は少しためらいがちに、「だから、サイモンが私のためにそれを買ったんだと思うわ」と続けた。
「彼はオンラインで注文したってこと?」とニコラが聞く。「彼が亡くなる前に?この種のテーブルって、何千ドルもするのよ」
オーストラリア市民で、ただ一人の親戚でもある叔父がフィリピンに帰るらしかった。彼は飛行機のチケット代や隔離滞在のためのホテル代を支払えるし、甥のサイモンの遺骨が入った骨壺を彼のきょうだいに手渡すことができるのだ。
「どのクレジットカードも使われていないのよ。あなたに言ったけど、私が目覚めた時に、そのテーブルはもうここにあったの」
「じゃあテーブルが瞬間移動したとでも思っているの?まるで魔法のように?」
まだパソコンの前の椅子に腰をおろしていたロージーは、体をひねってテーブルの厚板に手をのばした。
「これは、彼が私をここから立ち去らせたくないという意味だと思うの」
ニコラは激情がこみ上げるのを覚えた。「一人分のサラリーだけではここに住めないわ、ロージー」
ロージーは泣きだしてしまった。「じゃあ、これを説明してみて」
「あなたはIKEAに行ってテーブルを買い、自分で組み立てたのよ」
IKEAには行っていないわ」とロージー。「あそこにはパーティクルボードしかなかった。このテーブルは重たいでしょ!」
ニコラはマスクの内側に熱が籠るのを感じていた。「サイモンはもう戻って来ないのよ」とニコラ。「バカなことを言うのは、やめてよね」

*1 細かく刻んだ豚肉や玉ねぎを醤油や酢、にんにく、唐辛子などで炒めたフィリピン料理
*2 木片を加熱圧縮した板

ニコラがロビーに戻ってみると、フォルダーを手渡してくれた男がまだ建物の外にいた。ニコラはガラスドアの後ろに立って彼を見つめる。彼はマスクをつけたままだったが、サングラスはもうしていなかった。彼女の方を見ていなかった。壁にもたれてステッキを両脚に挟み、顎までマスクがしっかり覆うよう位置を少し調整していた。
ニコラは表に出た。「あなたのこと、私は知っているわ」と男に声をかける。「以前、会ったことがあるわよね」
男は一瞬ニコラを見つめ、マスクをはずした。
「ああ、そうだった」とニコラ。「マイケル、そうでしょ?おバカさんの」。ニコラはステッキを一瞥してから、驚いたような彼の目をのぞき込んだ。
「まだ膝が言うことをきかないみたいね」
マイケルはステッキを握った。「大丈夫だよ」
「大丈夫なことは、わかっているわ」とニコラ。「だって、あなたはまだ生きているんだから」
彼は、ニコラから目をそらす。
「今はレストランの中に入れるって、知っている?」とニコラは言い、「私について来て」と誘った。

アパートのすぐ隣にダンプリング*3のレストランがある。客がテーブルを一つ離して座っているのが見えたが、ニコラはレストランの中に入って座ることにはまだ不安だった。だから、マイケルと一緒に外のテーブルについた。
「ロージーは以前、ここに来たの?」
マイケルは頭を振る。「いや、道を下った先のカフェだった」と答えるマイケルは、動揺しているように見えた。「彼女はパジャマ姿だったよ」
「追いかけたの?」
「うん、彼女と話をしたかったので」
「だから、あなたは彼女の後をつけたのね」
レストランの店員が注文をとりにテーブルに来たとき、マイケルは突然涙を流した。
ニコラは、一晩のうちに二人の人を泣かせてしまったなんて、ウソみたいだと思った。
店員は「あとで、また来ます」と小さな声で言い、その場を離れた。
「ぼくは」とマイケルは話し始める。「ぼくは、彼女と話がしたかっただけなんだ」
「今だったら、あなたは彼女に何て言えるの?」。ニコラは自分が怒るとは思わなかったが、急に怒りがこみあげてきて体が震え始めた。「彼女のボーイフレンドをお酒に酔わせ、バスケットボールをさせたことを謝る?」

*3 餃子に似た肉入りだんご

ニコラは病院で、出来事の大筋を聞いて知っていた。それは、こうだ。マイケルとサイモンはロックダウンが発効する前、仕事の後で酒を飲んでからシドニーのオリンピック公園に行き、ハーフコートでバスケットボールに興じた。その際、マイケルは激しく倒れて膝を痛めたのだ。サイモンは腕にちょっとした切り傷を負った。翌日、サイモンは熱が出たのでウイルス検査を受けたが、陰性だった。病院はすでに満杯だったため、解熱剤をもらって帰宅した。ところが、熱は引かなかった。サイモンは、敗血症性ショックにかかっていたのだった。

「私は、あなたを殺してやりたかったわ、ほんとうに」。ニコラはそう言った。まだその気持ちは変わっていない。
「ほんのわずかな切り傷だった。ぼくは、敗血症が何なのかさえ知らなかったんだ」。マイケルの顔に涙が流れ続けた。「できることなら、ぼくは時間を前に戻したい」

ニコラはアパートに戻ったが、今回はインターフォンを無視した。すんなり部屋に入れたのでびっくりしたけれど、運が良かったのだ。
ロージーの姿は見えなかったが、サイモンが農家のテーブルを所定の位置に押し戻そうとしていた。彼は「ああ、いいね」と言い、「手助けが要る」と続けた。ニコラはクリーム色の細長いテーブルクロスを広げ、ガラスケースにピンク色の花を飾るのを手伝った。
「これはガムツリーの店で、無料で手に入れたんだ。信じられるかい」とサイモン。
「タダで?誰か、このテーブルの上で亡くなったの?」。そうニコラは言ってから、何だか妙な感じを覚えた。Died on the table。このフレーズは、病院で使う表現で、手術中に亡くなるという意味があるからだ。
「いや違うよ。これをぼくにくれた男性は急にフランスに戻らなければならなくなって、自分の持ち物を配ったりして処分していたんだよ」。サイモンは細長いテーブルクロスのしわをのばした。「ぼくは、これでロージーを驚かせたかった」
「すてきね」。二コラのきょうだいのサイモンは、うれしそうだった。たぶん、値の張るアパートに引っ越したことはまともな決断ではなかったかもしれないが、サイモンは一生懸命に働き、うまくやっていたのだ。だから、人生を楽しんだっていいはずだ。
「ごめんね、あなたたちの引っ越しを手伝っていた時の私って、嫌な女だったでしょ」
サイモンは笑いながら答えた。「本当に嫌な奴だった!」
サイモンが頬を掻いた時に、ニコラは彼の腕の絆創膏に気がついた。
「たぶん、その切り傷をきれいにする必要があるわね」とニコラは言い、いろいろなことの不公正さに深い悲しみを感じていた。
サイモンは嘲笑してみせた。「この傷のことかい?」と言ってから、「そんなこと、どうでもいいんだよ」と言い添えた。

ニコラは振り返り、再びダンプリングのレストランで座っている自分に気づく。
「大丈夫?」とマイケルが声をかけた。彼の目はまだ濡れていた。「あなたは居眠りをしていたようだったよ」
ニコラは、しばらく何も言葉にできなかった。マイケルがメニューを手にするまで、二人は黙ったまま座っていた。「何を注文しようか―」
ニコラはキュッと身を引き締めた。「何ですって?」とはっきり口を開いた。
マイケルは一瞬、戸惑った素振りを見せながら、こう続けた。「ロージーのために、何か食べ物を注文しようと思っているんだけれど」
ニコラは、レストランの店内に目を向けた。先ほど注文をとりに来た店員が、テーブルをきれいにしようとしている。
「私のきょうだいが、あるテーブルを見せてくれたの」。彼女は不思議そうな様子で言葉をつないだ。
「何だって?」とマイケルが聞き返す。
「何でもないわ」とニコラ。「一緒に、ロージーに会いに行こう」
「本当に?」
「私の気持ちが変わらないうちに、『イエス』って言って」
「もちろんだとも」。マイケルは、腕の裏でまぶたをぬぐい、「イエス」と答えた。
「よかった」とニコラは応じてから、マイケルが席を立つのを助け、マスクをつける前に清々した夜の空気を深く吸い込んだ。
「さあ、ダンプリングをいくつか買って行きましょう」